「上から見ると真っ白だった」。和歌山県湯浅町で生まれ育った川瀬弘さん(86)は子ども時代を懐かしんだ。5月から6月ごろ、有田郡や現在の由良町付近はケシの白い花に埋め尽くされ、まるで雪が降ったかのようだったという。一方、子どもが近づくことは禁じられていた。「ケシを育てているところには入るな、と言われていたね」
広川町でミカン農園を営む栗山冨宏さん(82)は戦前のケシ栽培について、親や近所の人たちが「百円札を見たければケシを植えろ」と言っていたことを覚えている。当時の100円は、近年の数万円ほど。栗山さんが住む旧南広村(現・広川町)が、県内でも特に栽培が盛んだったと聞かされていた。
拡大するケシ栽培について、かつて近所のお年寄りたちがしていた話を思い出す栗山冨宏さん=2020年7月12日、和歌山県広川町井関、藤野隆晃撮影
和歌山でケシは、稲の裏作として田んぼに植えられ、5~6月に収穫の時期を迎えた。ケシの果実が未熟な時、表面に傷を付けると出てくる白い液を乾燥させると、「生アヘン」と呼ばれる固形化したものができる。その後、水を加えたり、加熱したりするとアヘンになる。アヘンの吸煙は習慣になりやすく、中毒になることも多かった。
生アヘンの中には、鎮痛作用のあるモルヒネが成分として含まれ、医薬品としても使われる。ただ、使い過ぎると依存を生む可能性がある。また、モルヒネからは依存性がさらに強い麻薬、ヘロインを生み出すことができる。
日本近現代史を研究した故江口圭一・愛知大教授の著書「日中アヘン戦争」によると、国内でケシの栽培が始まったのは明治時代後期。日本は、アヘン吸煙が根付いていた台湾を統治する際、アヘン中毒者へ対応する策として専売制を始めた。その一環として国内で栽培が始まり、アヘン価格の高まりなどもあり、大阪府を中心に栽培が盛んになったという。
不況を救った「白い花の女神」の物語です。和歌山とアヘンの深いつながりを、当時を知る人たちをたどりました。知らないうちに、誰かを苦しめていたかもしれないケシ栽培。歴史をたどると、のどかな農作業の裏面が見えてきます。
和歌山県が戦前にまとめた資料…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル