2011年の東京電力福島第一原発の事故で、福島県などから北海道内に避難してきた住民らが国と東電を相手取り、慰謝料など約13億6千万円の賠償を求めた控訴審の口頭弁論が28日、札幌高裁であった。原告の避難者が意見陳述し、事故から11年経っても癒えることない苦悩を訴えた。
「原発事故がなかったら長男はおそらくこの病気にはならなかったのではないでしょうか」
現北海道赤平市議の鈴木明広さん(61)は、法廷でこう訴えた。昨年3月に長男(26)が悪性リンパ腫を発症し、札幌で入院治療中であることを明かした。「私は、避難行動が遅れたことによる健康への影響について、毎日自分を責め続けており、長男が苦しみから解き放され健康が回復することを願う、やりきれない日々を過ごしております」と述べた。
鈴木さんによると、事故当時、停電した福島市内の自宅で、ラジオで原発事故を知った。最も気がかりだったのが、当時高校2年と中学2年の息子の健康被害だった。
すぐに避難を考えたがガソリンが手に入らず、震災の約2週間後に新潟に一時避難できた。息子たちの健康を考えて、学習塾を営んできた故郷の福島市を離れることを決意した。11年9月、先に長男が転校していた北海道函館市に次男とともに避難した。
16年に赤平市に移り住んだ。長男は大阪のIT企業に就職し、次男は道内の食品会社の直営農場で働き始めた。19年、「新しい風を入れてほしい」と請われて赤平市議選に立候補し、当選を果たした。
北海道十勝地方の高校に勤める妻とは同居の見通しは立たないが、苦難の多い避難者がいるなか、「自分たちは、ソフトランディングできたほうではないか」と思えるようになっていた。そんな矢先に襲った長男の病気だった。
長男は発病後、半年間にわたり抗がん剤治療を受け、一時寛解ともいえるほどに回復。しかし12月に再発がわかった。薬の副作用で髪が抜け、吐き気に苦しむ長男の姿を見るのは「心がずたずたに引き裂かれる思いだった」。
福島市内にとどまっていた間に、息子たちを被曝(ひばく)させたと考えてきた。法廷に立つのは気が進まなかったが、「事故から11年たち、世間に避難者の声を忘れさせないため」と意見陳述することにした。
鈴木さんは閉廷後の取材に「原発事故禍から一生抜けられないのか。事故の記憶も消えかけている世の中だが、事故は決して終わっていないことをわかってほしい」と静かに語った。
控訴した原告の大半は、国の避難指示の対象にならなかった「自主避難者」だ。20年3月の一審・札幌地裁判決は、国と東電の責任を認めて賠償を命じたが、自主避難が妥当だと認められる期間を、政府による原発事故の「収束宣言」が出た11年12月末までとした。このため、賠償を受けられる対象が原告253人のうち4割弱に限られ、金額も約5300万円にとどまった。(中沢滋人)
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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