津市芸濃町椋本の旧家に、著名な政治家や政府高官、軍人ら明治期の肖像写真162枚が残されていた。幕末に新選組副長を務めた土方歳三の写真に、別人の政治家の名前を焼きつけたものもあった。郷土史家が旧家の交友関係や当時の写真事情を知るうえで貴重だとして、写真の入手方法などを調べている。
写真が見つかったのは、旧芸濃町の実業家駒田作五郎(1849~95)の実家。
作五郎は茶の栽培・販売に取り組み、1881(明治14)年ごろ、主に紅茶を輸出する会社を設立した。横浜に支社を置き、米国などに輸出し、大きな財産を得た。三重県議も務めた。茶摘みの女性や社員で計1千人以上いたが、米国で茶の価格が下落、多額の借金を抱え91年ごろに会社は解散した。
作五郎の実家が2021年に取り壊されることになり、地元の郷土史家で三重郷土会常任理事の浅生悦生さん(78)に遺族が古物の調査を依頼した。渋染めの小箱には観光地の写真のほか、主に手札サイズ(縦10センチ、横6センチ)の色あせた白黒の肖像写真が162枚収められていた。
福沢諭吉や渋沢栄一、大隈重信、勝海舟のほか、政府高官、陸海軍の将官、経済人、剣術家、儒者……。宮家などの女性の写真も11枚ある。明治初期の三重県議らの写真も十数枚あった。表に名前が焼きつけられているものもあれば、裏に名前や「駒田作五郎君へ」と書き込まれているものもあった。
複数の写真史専門家によると、当時こうした写真は名刺として使われたほか、ブロマイドのように販売もされていた。浅生さんは「実際に本人から受け取ったものだけでなく、明治中期ごろまで仕事で滞在した横浜や東京で買い集めた写真も多いのではないか」と推測する。
土方歳三の写真は全身像を長円で囲い、下部に「カウチ 土方久元君」と焼きつけられている。
久元は旧土佐藩の出身で幕末、幕府を倒すため、中岡慎太郎や坂本龍馬らとともに薩長同盟の実現に尽力。明治維新後は伊藤博文内閣の農商務相に就いた。「カウチ」は高知県を指すとみられる。
一方の歳三は幕府の大政奉還後も旧幕府軍として新政府軍と戦い、1869(明治2)年に函館で銃弾に倒れて34歳で戦死する。東京都日野市の佐藤彦五郎新選組資料館によれば、歳三は西洋の軍服姿の自分の写真を函館の写真家に撮影してもらい、姉の嫁ぎ先である佐藤彦五郎に遺品として届けた。当時、土産物として写真が販売されていたこともあったという。
「久元」と焼きつけられているのはその写真だ。浅生さんは「当時写真はまだ珍しく歳三の顔もあまり知られていなかった。写真家が歳三の姓を見て、久元と思い込んでしまったのではないか。誤ったままブロマイド写真として出回っていた可能性がある」と指摘する。
板垣退助の写真の裏に「明治二十年」「代価廿(にじゅう)二銭」と書き込まれていた。当時の朝日新聞の購読料は月額25銭で、写真が高価だったことがわかる。162枚の人物写真は裏面の図柄などから7~10店で購入したものらしい。ある県議の写真裏側には「伊勢津観音寺内」と写真店の場所が記されており、津市大門にあったことも明らかになった。
浅生さんは「当時の写真と人々のかかわりを知るうえで貴重な資料だ」と話している。(高田誠)
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル