禰豆子が待ったうどん屋あった浅草 「鬼滅」で描かれた繁栄はいま

大正時代、凌雲閣(浅草十二階)から8方向に撮影された写真(絵はがき=江戸東京博物館所蔵)をつなげた画像。写真の境目などは完全にはつながっていない。江戸東京博物館でも同様の展示がされており、明治、大正、現在のほぼ同位置から撮影した浅草の眺めの比較が可能となっている

 朝日新聞社では、明治・大正期からの写真約2千万枚をフォトアーカイブで所蔵している。大ヒットアニメ「鬼滅の刃」に描かれている大正時代の浅草の写真も、大量に残されている。

 主人公の炭治郎が、妹の禰豆子(ねずこ)とともにやってきた浅草。最大の敵である鬼舞辻無惨を見失った炭治郎は、禰豆子を待たせていた屋台のうどん屋に戻ってくる。

 東京といえば、「うどんより、そば」という印象を持つ人も多いのではないだろうか。しかし、明治維新後の東京では、うどんはそばをしのぐほどの人気になっていったようだ。

 1881(明治14)年に初演された河竹黙阿弥歌舞伎「島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」に、こんなシーンがある。男2人が屋台のそばを食べながら、こう語り合う。

 「以前と違って夜たかそばは、売り手が今じゃ少ねえようだね」

 「おっしゃる通り山の手ばかり、下町にはござりませぬ」

 「そのかわりなべ焼きうどんが1年増しに多くなった」

マンガで登場した「凌雲閣」は爆破処理された

 江戸を描いた時代劇で出てくる屋台といえば、そばだが、「鬼滅の刃」の舞台は大正時代。ここでうどんの屋台を登場させた「鬼滅」の演出に、思わずうなった。

 江戸東京博物館の沓沢博行学芸員に問い合わせたところ、この、大正時代の浅草の「うどんの屋台」を撮影した写真を収蔵していた。しかし、著作権が切れていない可能性があるため、小欄で紹介することができない。そのかわりに、「おでんの屋台」の写真を提供してくれた。

 どこかの商家で奉公している小僧さんだろうか。写真説明に「未来ノ紳士(嬉シイ一日)」とある。ハンチングをかぶった3人は、同じ装いに見える。店から支給される「お仕着せ」だろうか。うまそうに、おでんをほお張っている。

大正から昭和初期のおでん屋(絵はがき)。撮影場所は分からないが、写真からは当時の様子が伝わってくる。絵はがきの説明は「未来ノ紳士(嬉シイ一日)」となっている=江戸東京博物館所蔵

 1923(大正12)年9月1日の関東大震災は、東京と横浜を壊滅させ、10万人を超える犠牲者を出した。

 「鬼滅の刃」でも描かれている赤レンガの凌雲閣(浅草十二階)は、8階部分から折れ、震災から3週間後の9月23日に爆破処理された。この爆破には大勢の見物人が集まり、ある種のイベントのような雰囲気だったようだ。朝日新聞は、「明治二十四年来の名物は永遠に地上から去った」と報じている。

1923年の関東大震災で全焼した浅草仲見世=朝日新聞社
1923年、9月23日、爆破され、崩れ落ちる凌雲閣。「浅草十二階」と呼ばれ、浅草のシンボルの一つだったが、関東大震災で上部が崩壊、爆破解体された=朝日新聞社

 浅草から隅田川を挟んだ対岸に位置する、墨田区両国の陸軍被服廠(ひふくしょう)跡では、最悪の被害が出た。

 JR両国駅の北側に、江戸時代には幕府の資材保管所である「御竹蔵(おたけぐら)」があった。「本所七不思議」の「おいてけ堀」があったのが、ここだ(諸説あり)。

 明治維新後、御竹蔵には陸軍の軍服を作る被服廠(ひふくしょう)が置かれた。それを解体して公園整備しようとした矢先に、関東大震災が襲った。

 更地となっていた跡地に、大八車に家財道具を満載して逃げてきた人たちが殺到した。ほっと安心したのもつかの間、四方から炎に包まれ、家財道具に引火。火災による竜巻「火災旋風」が発生し、逃げ場を失った約3万8千人がここで焼け死んだ。

1923年、関東大震災後、浅草寺の本坊、伝法院に避難した被災者(絵はがき)。伝法院には10月にテント張りの無料宿泊所がつくられた=朝日新聞社所蔵

浅草寺を守り、再建した「ひょうたん池」

 関東大震災での旧東京市の犠牲者は7万人弱。その半数以上が、ここで命を落としたのだ。震災後に東京都慰霊堂が建設された、現在の横網町公園である。

1923年 関東大震災後、露店が並ぶ浅草寺の境内。本堂は救護所になっていた=朝日新聞社

 浅草公園にも、人が殺到した。7万人が逃げてきたとされる。風向きなどの幸運もあったかもしれないが、浅草公園には家財道具を持ち込ませなかったことも幸いしたようだ。そして、避難者たちが、本堂などの浅草寺の伽藍(がらん)を守った。「鬼滅の刃」にも描かれている「ひょうたん池」の水で、消火活動にあたったという伝承もある。

 関東大震災の業火から浅草寺を守ったひょうたん池は、戦後もう一度、浅草寺を救う。

1953年、東京大空襲で焼失し、再建中の浅草寺本堂(後方)。手前は仮本堂で、現在の淡島堂=朝日新聞社

 1951年10月。明治初年から浅草寺一帯を「浅草公園」としてきた東京都は、その土地を浅草寺に返還した。当時、東京大空襲で焼き尽くされた浅草寺には、本堂がなかった。そこで、返還された土地を元手に、再起をめざした。明治時代に掘削した「ひょうたん池」を再び埋め戻して売却。本堂の再建費用に充てた。ひょうたん池は、その水で関東大震災から浅草寺を守り、姿を消すことで、浅草寺を再建したのである。

 浅草寺の本尊は聖観世音菩薩(ぼさつ)。秘仏中の秘仏とされ、645年(大化元年)以来誰も見ていない、ともいわれる。実在が疑われたので明治初年に確認した、ともいわれる。いずれにしても、秘仏を目にした存命者は、いない。

 1945年3月10日の東京大空襲で、浅草寺は全焼。江戸初期の慶安年間に建立された本堂も失われた。しかし、秘仏は万一に備えて厨子(ずし)ごと青銅の手水(ちょうず)鉢に収められ、地下3メートルの土中に安置されていたため、焼失を免れた。

現在の淡島堂=吉田耕一郎撮影
現在の淡島堂=黒瀬昌明撮影

消えた「東洋一」、衰退の原因は

 戦争が終わると、浅草寺はただちに仮本堂を設け、秘仏を安置した。戦火を生きのびた浅草寺の本尊は、焼け野原から立ち上がろうとする庶民の希望の光だったという。この仮本堂は現存しているが、ここを参拝する者は少ない。平成に入って本堂の西側に移築された「淡島堂」である。

 しかし、浅草は衰退していく。

 江戸時代から明治維新後も、日本最大の繁華街だった浅草。だが、新宿など新たな街に、にぎわいを奪われていった。

 いつ、衰退が始まったのか。関東大震災で壊滅したから――ではない。

 震災後、浅草はあっという間に復興していった。朝日新聞社に、震災1年後に撮影された浅草寺・仲見世の様子を撮影した写真が残されていた。まさに、震災から復興しようとする浅草が切り取られている。

1937(昭和12)年、開館した浅草国際劇場(絵はがき)=朝日新聞社所蔵

 1937(昭和12)年には、国際劇場が開業する。松竹が建設した、鉄筋コンクリート4階建ての劇場。収容人員4千人超という東洋一の巨大劇場だった。

 浅草の衰退は、戦争による被災が原因でもない。前述の通り、戦後も庶民の希望だった。では、いつ衰退が始まったのか。

昭和30年代ごろの浅草国際劇場=江戸東京博物館所蔵

 テレビの普及と娯楽の多様化が原因、といわれている。高度成長期に入ってから劇場や映画館には閑古鳥が鳴き、「江戸随一」「東京随一」だった繁華街・浅草は、新宿や渋谷にその看板を奪われていった。

 2012年10月21日。最後の映画館3館が閉館した。1903年に日本初の常設映画館「電気館」から続いていた映画の灯火(ともしび)が、浅草から消えた。

 浅草六区から西に1本道路を隔てたところに、かつて「国際劇場」があった。閉館したのは、39年前の1982年。跡地は、いま「浅草ビューホテル」となっている。

 国際劇場か……。その威容はカラー写真に残っているだけで、「東洋一」といわれた建物は何も残っていない。

 だが、往年の面影が、いまもかすかに残っている。

 ホテルの目の前を走る、都道462号。通称「国際通り」である。(抜井規泰)

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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