街の豆腐屋さんがマシンガンを手に持つ構えをし、「パパパパパ」と撃つまねをした。
悪意はないのだろう。けれど、イラン出身だと告げると、日本人は決まって「ホメイニは怖い」と言った。
1979年。ショーレ・ゴルパリアンさんは日本にやってきた。
当時、日本に住んでいた出身者は約300人。暮らしていた東京・荻窪の人々には優しくされたが、物珍しがられた。
日本では、イランといえばホメイニ師が指導して同年に始まったイラン革命と暴動ばかりが報じられていた。そのせいで野蛮な国とでも思われたのか。マシンガンを撃つまねもニュースの影響だろうとは思いつつ、やはり釈然としなかった。
「でも、もともと日本は、私にとって夢の国だったんですよ」とショーレさんは言う。
「まいど」「おおきに」 教わった関西弁
5、6歳のころ、ペルシャ語に訳された日本の昔話を読み、「日本の天皇のお嫁さんになりたい」と無邪気に夢見ていた。周囲の女性がテニスに興じるなか、アメリカンスクールで空手を習った。
大学生のころ、三井物産のテヘラン支店でアルバイトしたのが、日本語を学ぶきっかけとなった。同社には、関西弁の人がなぜか多く、「まいど」「おおきに」という言葉を教えられた。
「ブッサンでは『めし』という言葉も使っていました。あと『ほんまか?』。それほどくだけた表現だとは思わず、当然の言葉として覚えました」。ショーレさんは懐かしそうに笑う。
そのブッサンで出会い、恋をした男性が帰国するのを機に、日本に渡ることを決めた。
でも母からは猛反対にあう…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル