■沖縄季評 山本章子・琉球大学准教授
米海兵隊普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の同キャンプ・シュワブ(同県名護市など)への「辺野古移設」をめぐる国と沖縄県との訴訟は、国が県に代わって埋め立て工事を承認する代執行に向けた裁判を起こし、県が受けて立つという形で大詰めを迎えている。日米両政府が普天間返還に合意して27年、長年にわたる政治的な紆余(うよ)曲折をへて問題が見えづらくなっている感があるので、この機会に事の本質を問うてみたい。
国が戦後一貫して米軍基地を本土から沖縄へ、首都圏から地方へ、都市から過疎地へと移し、人口の多い地域から遠ざけることによって基地問題を「解決」してきた実態を、私は共著「日米地位協定の現場を行く」(岩波新書、2022年)で描いた。民家が密集する市街地の真ん中から過疎地域に基地を移設する普天間返還も、同じパターンの「解決」策である。
沖縄県の大田昌秀・稲嶺恵一両知事が重視していたのは国が県の理解を得て移設を進めることであって、2人とも途中まで県内移設じたいには同意していた。当時取材していた記者の中に、今でも「(米軍嘉手納基地内に移設する)嘉手納統合案なら問題なかった」と言う者がいるのは、県が事前に了承した案だったからだ。沖縄県は、国には47分の1でしかない自治体の意見を尊重するよう求めながら、県内では小さな自治体に負担を転嫁する冷徹な政治論理を通そうとした面があった。
沖縄県の論理が変化したのは…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル