明治維新直後の1874(明治7)年、佐賀県で起きた不平士族の反乱「佐賀の乱」に鎮圧部隊を送った政府軍の鎮台がある熊本で、旧藩主細川家の「お世継ぎ」を巡って政府軍と旧藩士がにらみ合う騒動があったことを記録した史料が新たに見つかった。熊本大が発表した。
熊本藩筆頭家老だった松井家の日記に記述があるのを、熊本大永青文庫研究センターの今村直樹准教授が発見した。
廃藩置県後に上京した旧藩主・細川護久(もりひさ)の長男で、熊本に残っていた護成(もりしげ)(幼名・建千代(たつちよ)、当時5歳)を鎮台本営のある熊本城に移すよう、鎮台から細川家の熊本本邸に要請があったが、細川家は断り、護成を守ろうと邸宅の周りに約1千人の旧藩士が集まっているという内容。同様の記録は旧藩士のリーダー格で、その後の西南戦争で西郷隆盛軍に参加した池辺吉十郎の日記でも見つかった。
佐賀に鎮圧部隊を送った熊本城は防備が手薄になり、鎮台兵の一部は旧藩士らが佐賀に呼応して蜂起するのを未然に防ぐために護成の移動を図ったが、旧藩士らは「人質」ととらえて反発し、細川邸の周囲に集まって鎮台側と数日間にらみ合った。この騒動は、熊本鎮台司令官だった谷干城(たてき)が佐賀の乱の後に振り返った文章で触れていたが、今回見つかった旧藩士らの日記で確実になった。
今村准教授は「1871年の廃藩置県後、護久ら旧藩主は東京に移住し、旧藩地への影響力は弱まったと考えられていたが、士族反乱が多発した時期にはまだ強い影響力を持っていたことを示す史料だ」と話している。(今井邦彦)
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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