終戦の日の1945年8月15日に連合軍機と戦って墜落したとみられ、今年1月に千葉県大多喜町泉水でエンジンなどが掘り出された旧海軍の戦闘機零戦をめぐり、操縦士とみられる墓の存在が20日、同町で確認された。住民の手で手厚く葬られ、現在まで75年間、墓の由来がわからなくなってからも大切に管理されていた。
房総半島中部の日本軍機の墜落場所を探し、慰霊する活動を続けている同県睦沢町立歴史民俗資料館の学芸員久野一郎さん(64)と同町文化財審議会委員の幸治(こうじ)昌秀さん(77)によると、終戦の日に現在の同県茂原市にあった海軍茂原航空基地から零戦で飛び立ち、戦死した5人の名前と、墜落場所5カ所が分かっている。
零戦のエンジンと20ミリ機関銃が掘り出された、との報道後、「縁のある人のお墓ではないか」と久野さんに連絡があり、久野さんが墓を確認した。
お墓は大多喜町紺屋の「紺屋区観音寺墓地」(山形幸平・管理委員長)の片隅にあり、高さ約1メートルの墓碑の表に「故海軍一等兵曹 茂原航空基地 一勇士之(の)墓」、右側面に「昭和二十年八月十五日 於大多喜泉水戦死」、左側面に「昭和二十一年八月十五日建立」として地元の2人の人の名前が彫られていた。
現在、このお墓を管理している地元の人たちの話では、この墓が建てられたいわれなどは全く分からなくなっていたが、地元の人の墓と同様に、75年間、掃除を続け、大事にまつってきたという。久野さんは「戦死した日や場所が一致することから、エンジンなどが掘り出された零戦の操縦士のお墓に間違いない。まるで見知らぬ人であったであろう操縦士を、手厚く埋葬した大多喜町の人たちの心の優しさに、涙が出そうになる」と話した。
2014年から調査を続け、う…
2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちら
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル