笹川翔平、比嘉太一
76年前の8月14日、大阪市都島区と城東区にまたがる国鉄京橋駅(現JR京橋駅)周辺は米軍による大規模な空襲を受け、終戦を目前にして多くの人が命を落とした。終戦の10年後から続く慰霊祭は昨年、新たな担い手へとバトンが引き継がれた。当時を知る人は、体力が許す限り経験を伝えることを誓う。
京橋駅の慰霊碑前では14日朝から多くの人が犠牲者を追悼した。近くに住む平木アヤ子さん(70)は娘と3人の孫と訪れ、「近所で多くの人が犠牲になったことを孫に知ってほしかった」と話した。千羽鶴を持参した孫の高橋幸杜(ゆきと)くん(11)は「二度と戦争がないことを祈った」と話した。
空襲は、「東洋一の兵器工場」と呼ばれた「大阪砲兵工廠(こうしょう)」が標的となった。ちょうど今の大阪城公園にあった。近くの京橋駅にも1トン爆弾が落とされ、乗客らが避難していた場所を直撃。犠牲者は500~600人とも言われる。
体験どう伝える「慰霊祭さえ開けばいいというわけではない」
慰霊祭を昨年から取り仕切るのが、僧侶の松井英光(えいこう)さん(58)。第1回から慰霊祭に携わってきた大阪市内の寺の住職が体調を崩して代わりを任された。
空襲被害者や遺族の高齢化が進み、参列できない人も増えている。国鉄職員の父を亡くし、毎年慰霊祭のポスターを書いていたという80代の男性からも、今年は「体力的につらい」と参列見送りの連絡を受けた。
昨年、初めての慰霊祭を終え…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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