被爆直後のナガサキの街は「70年は草木も生えない」と言われた。被爆した妊婦からは「肢体の不自由な子が生まれる」-。しばらくすると、そんなうわさも流れた。
臨月に入っていた当時19歳の岳野カズヱさん(93)=長崎県西海市=はあの日、自宅で裁縫中だった。夫は不在で、身重の体がつらく、早朝に空襲警報が鳴っても防空壕(ごう)に行かなかった。爆心地から3・2キロ。ピカッと感じ、とっさに布団をかぶった。爆風で壁やタンスが吹き飛んだが、辛うじて生き延びた。
「無事に生まれてくれてよかった」
長女が生まれたのは2週間後の8月22日。自宅再建もままならない中、元気な産声に胸をなで下ろした。「ただただ、無事に生まれてくれてよかった」。今春入所した特養ホームで岳野さんは振り返る。
胎内で被爆した長女はいま、73歳になった。放射線の健康への影響は今でもはっきりしないことが多いが、幸い、大きな病気もなく過ごしてきた。
長女によると、米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)の調査を小学4、5年まで年1回受けた。ジープ型の車が家の前まで迎えに来て、体のあちこちを調べられた。お菓子をもらえるので最初は行くのが楽しみだったが、学校では「原爆はうつる」と陰口をたたく人もいた。
中学卒業後に就職した長女。「生活が苦しく、自分が被爆者かどうかなんて考える余裕はなかった」。友人にも、自分が被爆者だと伝えたことはない。
生を受けたときから苦難の道を歩んできた人たち
放射線の影響による流産や死産を免れたものの、生を受けたときから苦難の道を歩んできた人たちがいる。知能や身体に障害を伴う「原爆小頭症」の被爆者だ。
長崎原爆に遭った大場幸江さん(仮名)=当時18歳=の長男、正一さん(同)もその一人。幸江さんは爆心地から1キロで被爆し、高熱や吐血などの急性症状に苦しめられた。髪の毛は抜け落ち、ようやく床を離れられるようになった1946年1月に出産。正一さんは頭が小さく、発育が遅かった。年を経るにつれて2歳下の弟との間に知能の差が現れた。その「違い」がやるせなかった。
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Source : 国内 – Yahoo!ニュース