現場へ! みちのく疾走40年②
地元が要望し、費用を負担してできる「請願駅」。郷土が誇る歴史は映画になった。
「6万4千花巻市民が火の玉となって迫るならば、できないわけがない」。2500人の市民が詰めかけた岩手県花巻市の体育館に、壇上から小原(おばら)甚之助(じんのすけ)の野太い声が響く。
2020年3月から同県内をはじめ、全国の劇場で上映された映画「ネクタイを締めた百姓一揆」の一場面。東北新幹線の駅が建設されないことがいったん決まった1971年から、新花巻駅の設置に至るまでの14年間を描いた作品だ。
甚之助は、決定の6日後に市民有志が駅誘致のために立ち上げた市民会議の議長だった。
最高設計時速260キロ、東京―盛岡2時間半――。新時代の高速鉄道への期待は大きく、岩手県内では盛岡より南の4市が、駅設置を求めて活動を展開した。
当初、花巻市民は設置を信じて疑わなかった。「盛岡に次ぐ都市という自負も大きく、黙っていても駅が来ると考えていたと思います」。当時の状況を、甚之助の孫で花巻市に住む小原良猛(よしたけ)さん(58)は話す。
しかし、発表されたのは一関と北上。将来、札幌までの延伸時の夜間停車駅として、水沢の名前もあったが、花巻は「素通り」。国鉄(現JR)が決めたことを覆せるのか。冷めた見方も多いなか、市民会議の動きは早かった。
建設ルートや周辺の地権者から「用地不売」の白紙委任状を取得。1年以上にわたり測量ができなかった国鉄は譲歩し、将来の駅設置に向けて「設計上の配慮をする」と表明した。
74年に新しい市長が誕生すると、誘致運動は官民一体になって加速した。市は駅用地を事前に取得。市民が「1人1坪」を寄付する運動も広がり、いつでも新幹線を迎えられる態勢を着々と整えた。
赤字経営の国鉄は東北新幹線…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル