花田勝彦へのメールから始まった 弱小校が箱根駅伝に出場するまで

 ガス会社の営業として働く小野大介(39)は、部下たちに伝えていることがある。

 「届かなそうな夢が目標に変わり、目標が現実に変わっていった。そういうステップが大事なんだ」

 小野にとって、届かなそうな夢とは何か。

 それは、箱根駅伝だった。

「サークルの延長だった」

 2002年、上武大(群馬県伊勢崎市)に入学した。陸上競技部の監督の専門は長距離走ではなく、投てきだった。

 1年生の同期は8人か9人。年末の全国高校駅伝で、都大路を走った選手はいなかった。

 「県大会の5、6番手の高校の控え部員が集まった感じ。サークルの延長でした」

 寮はあったものの、アパートを借り上げただけで食堂はない。2年生と3年生の先輩はおらず、4年生は就職活動などで秋の予選会の時期まで活動できていなかった。。

 小野にとって、箱根駅伝は憧れだった。

つなぐ、つむぐ 箱根駅伝100回

2024年1月2日、箱根駅伝は100回大会を迎えます。残り500㍍での棄権、異例の1年生主将、繰り上げを避けた7秒の戦い……。伝統のトロフィーを作った職人秘話も。様々な「箱根」を取材しました。

 陸上をやっていた兄も、亜細亜大で箱根に挑戦した。中学生くらいの時、近所のお兄さんが亜細亜大で箱根に出場したのを応援に行った。「大学でやれるチャンスがあるなら……」と親に頼んだ。

 ただ、実際に入学したが、出場できるとは思っていなかった。予選会に出るのが目標だった。

 2年生になると、少しずつ改革した。

 速いランナーについていこうと、日体大記録会に出た。合宿も自分たちで安く泊まれるところを探した。学年ごとに違っていた借り上げアパートも、全員同じアパートに変えてもらった。選手たちで考えたメニューをこなした。

 だが、10月にあった第80回箱根駅伝の予選会は22位で本戦出場を逃した。

 04年1月。寮のアパートに、大学のOBが新聞記事を持ってきた。

 「花田がやめるらしいぞ」

 花田とは、花田勝彦のことだ。

 早稲田大で同学年の櫛部静二、武井隆次とともに「三羽烏(さんばがらす)」と呼ばれた。箱根駅伝では1993年の第69回大会で、2年後輩のスーパールーキー・渡辺康幸らとともに総合優勝に輝いた。

 早大卒業後はエスビー食品で…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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