飛鳥時代の大豪族、蘇我蝦夷(えみし)・入鹿の親子が邸宅を構えていたとされる甘樫丘(奈良県明日香村)の遺跡で、7世紀後半ごろとみられる建物跡が見つかった。奈良・平安時代ごろとされる遺構も確認された。親子が645年にクーデターで倒された後の土地の活発な利用や変遷がうかがえる。村教育委員会と関西大が26日、発表した。
村教委が「甘樫丘遺跡群」と名づけた場所のうち、約240平方メートルを調べた。建物跡は南北5・4メートル、東西4・2メートル以上の規模で検出された。倉庫の可能性もある高床の総柱建物があったとみられる。柱の抜き取り穴からは7世紀後半(飛鳥時代)の須恵器が出土。谷を埋め立て、同時期に建物ができたとも考えられる。
炉の跡や木棺墓なども見つかった。木棺墓は墓壙(ぼこう)の底部分で出土した土器から、10世紀ごろ(平安時代)のものとみられる。
日本書紀によると、蝦夷・入鹿の親子は644年、甘樫丘に邸宅を並び建て、柵や武器庫も設けたという。しかし、大化の改新のきっかけとなった「乙巳(いっし)の変」(645年)で滅ぼされた。
村教委文化財課の長谷川透係長によると、その後の飛鳥時代後半ごろについては史料上、よく分かっていないという。飛鳥の歴史に詳しい相原嘉之・奈良大准教授(日本考古学)は、「(甘樫丘では)7世紀中ごろを境に遺跡の性格が大きく変わることがこれまでの調査で判明している。蘇我氏本宗家の滅亡と関連すると思われる。7世紀後半には朝廷の管理下になっていたともみられる。甘樫丘にある遺跡群の解明は、飛鳥史全体の解明につながる」と言う。
調査は終わり、現場は埋め戻されている。現地説明会や見学会はない。
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル