被爆の治療に赤チン、火葬続けた1週間 96歳が手を合わせる供養塔

 貴重な被爆建物として保存や活用が議論されている広島市南区の「旧陸軍被服支廠(ししょう)」。軍用品の製造拠点だったその施設で、ミシンの技術者を務めていた小笠原貞雄さん(96)=山口市道場門前1丁目=は、戦時下の活気と原爆による惨状を、ともに鮮明に記憶している。

 小笠原さんは、被服支廠に隣接する広島市の皆実町で育った。軍属になったのは1943年春、16歳のとき。いとこが先に働いており、その紹介で入ったという。

 軍服や軍靴、軍帽などの製造現場で、ミシンの設置や管理を担当した。

 ひとつの生産ラインごとに、3馬力のモーター1台がミシン20台を動かし、20人の縫い子の女性が働いていた。

 ひとつの作業場に生産ラインが4本あり、アイロンがけの女性や、小笠原さんたち技術者を合わせると計100人ほどが一つの班をつくっていたという。

 ダッダッダッダッ――。

 ミシンの音が響く作業場に待…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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