被爆十字架、父が背負った痛み「原爆に何の価値もない」

【動画】浦上天主堂に返還する十字架について説明するターニャ・マウスさん=田井中雅人撮影

 長崎・浦上天主堂に飾られていたとみられる十字架が今夏、74年ぶりに米国から返還される。原爆投下後に駐留した米兵が譲り受けたものだ。その米兵は被爆地の光景を目の当たりにして、何を思ったのか――。

 米オハイオ州のウィルミントン大学平和資料センター。反核活動家の故バーバラ・レイノルズさんが1975年に設立した。十字架が飾られていたのは2階の一室の壁。木製で大きさは約1メートル、金色に縁取られ、花の紋章が付いている。その特徴が一致する十字架が、浦上天主堂のガレキとともに写っている写真がある。45年8月9日に原爆が投下されてから、2週間余り後に長崎入りした朝日新聞出版写真課員(当時)の故・松本栄一氏が撮影したものだ。

十字架に光が当たれば…

 「被爆前の浦上天主堂にあったものは、ほとんど残されていません。十字架は浦上に帰すべきだと思うようになりました」

 こう語るのは、センターの責任者、ターニャ・マウスさん。「原爆投下を正当化する米国人の認識がすぐに変わるとは思いませんが、この十字架に光があたることで、核兵器がもたらす非人道的で破壊的な側面を思い起こしてほしい」という。十字架は、長崎に駐留し、2010年に97歳で亡くなったウォルター・フークさんが82年に寄贈したとの記録が残る。ただその理由はわからないという。

 「父は浦上への原爆攻撃を疑問に感じていました。何の戦略的価値もない、と」。取材に応じたニューヨークに住むフークさんの長男、クリストファーさん(69)によると、フークさんは米海兵隊員として45年10月から約3カ月間、長崎に駐留。当時の山口愛次郎・長崎司教と親交を深め、山口さんとともに浦上天主堂跡で見つけた十字架を譲り受け、ニューヨークの自宅へ送った。

 2人の交流はその後も続き、山口さんは61年4月、こんな手紙を送っている。「戦争が私たちの街に与えた被害については、もう気にしないでください。完全に再建され、以前よりも大きく、よりよくなり、もはや原爆の傷痕を見つけるのは難しいほどです」

二重の痛み、父は死ぬまで

 海兵隊の仲間の写真とともに居…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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