広島電鉄物語 第二部「動く路面電車の博物館」③
モータリゼーションの到来で、戦後最大の経営危機に直面した広島電鉄。だが、それ以前にも、壊滅的ともいえる危機に直面したことがある。広島の街一面を焼き尽くした1945年の「原爆投下」だ。
当時、広電の多くの社員が亡くなり、車両もほぼすべてが被爆、破損した。しかし、原爆投下からわずか3日後、生き残った社員の奮闘で広電は一部の区間で奇跡的に運行を再開することができた。壊れた路面電車で唯一使える可能性があったのが台車。社員たちはその台車をかき集め、壊れた上部の車体を修繕し、電気コイルを引き直した。軌道の多くが無事だったのも幸いした。49年までに96両を復元させた。
ただ、復活した車両もそう長く走り続けられたわけではなく、戦後まもなく引退を余儀なくされる車両も増えた。それでも今も、当時の姿を残す電車が残っている。
■100形「開業時に走った電車」
広電6号線の終着駅である江波駅(広島市中区)のすぐ目と鼻の先にある江波車庫。そこには広電最古の車両、100形(101号)が静かに車体を休めている。
広電の前身である広島電気軌道が設立されたのは1910年。発起人の大阪の大林組社長、大林芳五郎ら31人は軌道や架橋の建設を行い、2年後の1912年11月23日に開業にこぎつけた。その時に走ったのが、この100形だ。広電には製造から数十年という「中年電車」が多いなか、100年以上も前の姿を残す電車は101号のみだ。
開業式当日には花火が打ち上げられ、相撲などの興行も行われたという。「電車をひと目見ようと、多くの市民が押しかけ、電車は人ごみのなかをゆっくりと進まねばならなかった」。広電の創立70年社史には当時の様子についてそんな記載がある。
「広島に路面電車があるというより、路面電車を走らせるために川に橋を作り、いまの広島ができたという感じ。だから市民の路面電車に対する思いは元々強い」と加藤一孝・日本路面電車同好会中国支部長は言う。
当時の100形は全長8・5メートル、幅2・2メートル。最新の車両に比べると、車体の長さは半分以下、幅も3分の2ほど。1956年に全ての100形が廃車となったが、84年、広島県が主催した大型観光キャンペーン「SunSunひろしま」に広電が協賛した際、150形(157号)の台車を使って100形を復元し、「101号」として市民にお披露目された。開業時の花電車同様のその姿は、多くの市民の目に焼きついている。
冷房も低床化も改良済み 被爆電車がいまも現役でいられるワケ
復元した当時、100形の図面などの資料は残されていなかった。では、どうやって復元できたのか。
広電は、100形をかつて運転した当時91歳の元運転士などOBに集まってもらい、座談会を開いた。そこで車両の外観や構造、さらには運転方法も詳細に聞き出し、それをもとに再現したのだ。その話は社内で語り草になっている。
製造時の戦前とは車両の耐火…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル