それぞれの最終楽章・病院の牧師として(4)
淀川キリスト教病院チャプレンの藤井理恵さん
「こんな私でも赦(ゆる)されますか?」。死を前にした多くの方から尋ねられる言葉です。
罪責感というのでしょうか。裏社会を生きてきた人ははっきり持っています。59歳の肺がんの人で、看護師から「この人は何かあるから、話を聞いてあげてほしい」と言われて、訪問しました。抗がん剤治療中で、もうやせていましたけれどもすごく体格がよくて、性格は親分肌で4人部屋ではみんなの世話をしたり、励ましたりする側。病室では話せないからと面談室に行く時も、片手をあげて「ほな、行ってくるわ」という感じでした。でも個室に入った途端、肩をふるわせ泣くんです。「そう遠くないうちに死ぬことは分かってます。いろいろやってきたことがあって、親不孝もしましたし、ほかにもいっぱいありまして、それを持ったまま次の世界に行くのが怖くてたまりません。謝りたい人も、もうおりません」
どんな人か分からないまま、「神様はどこまでも赦して下さる愛の方だから、赦される道はちゃんと開かれています」と話すと「それを聞いただけでも楽になりました。なんも分からんもんですから、教えて下さい」「もう死んでしまいたいと……思って。この話を聞かなかったら、そうしたかもしれません。でもそれはあかんのですね」と言い、次の日から聖書を読み始めました。
ある時個室で、いつもは机の下に置いていた手を出しました。指が何本かありません。「極道で、賭博専門でした。借金が1億円になった時に指をつめて足を洗いました。妻にも苦労をかけました」と、泣きながら話してくれました。
化学療法が終わり、外来に移って次の入院はお看取(みと)りでした。亡くなる前日に病室で最後のお祈りをしました。お祈りの最後に言う「アーメン」は「本当にその通りだと思います」という意味です。声が聞けるとは思っていなかったのですが、彼は最後に「アーメン、ありがとうございます!」と絞り出すように言いました。本心から赦されたかったんでしょうね。
翌日、最後まで残る聴覚を通じて、神様はあなたを赦していらっしゃると伝えたかったので、看護師や担当医と賛美歌を歌ってお見送りしました。「自分は赦された」と信じて旅立っていかれたのではないかと、私は思っています。
もう一人、体中に入れ墨が入っている男性は「ムショにいた時間がシャバにいた時間より長い」と話していました。がんではなく慢性の病気で、最後は転院されましたが、最期が近いとお祈りにいくと、ベッドの周りはきれいに片付いていて、枕元に病院から持ち帰った聖書だけが置いてありました。
裏社会を生きたような人でなくても、罪責感は多くの人が抱えています。今の80代の方なら、経済的に暮らしが立ち行かないからと、堕胎を選ばざるを得なかった人は多いのです。ふだんは感じていなくても、最期を迎えると心残りとして出てきます。かわいい感じの80代の女性が「初めて言います。私は人殺しなんです。堕胎した私でも赦されますか」と聞くのです。ある男性は、奥さんに「お前なんか、死んでしまえ」と言ったら、本当に屋上から飛び降りてしまったと、おいおい泣きました。こうした重たい話をしばしばお聞きします。
重たければ重たいほど人は背負い切れないのだと思います。誰かに打ち明けて赦されたいとなれば、相手は宗教者になるのでしょう。そして、それを背負って下さる方の存在を伝えるのが私たちの役目なのです。(構成・畑川剛毅)=全8回
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1959年、神戸市生まれ。製薬会社に勤務後、88年関西学院大学大学院神学研究科修了。91年から現職。著書に「たましいのケア」(姉・美和さんとの共著)、「わたしをいきる」。
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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