- ナガサキノート:「のこす」の現場【3】
- 戦後74年。被爆者の高齢化が進む中、その体験を後世につなごうと奮闘する人たちがいる。さまざまな「のこす」営みの現場を訪ねた。
長崎市平野町の長崎原爆資料館で7月28日、通信制高校に通う長崎市の中島麗奈(なかしまれな)さん(17)が、来館者に被爆体験を話し始めた。体験と言っても自分のものではない。2年前、市が催した家族・交流証言推進事業の交流会で出会った被爆者の女性「信子さん」(89)の体験だ。被爆の記憶の継承に携わりたい人が、聞き取った体験を代わりに語り継ぐ仕組みを市が2016年度に作った。
キノコ雲描いた絵が何枚も
自分のものではない体験を語る――。中島さんは冒頭、この活動に加わった動機に触れた。
「自分にできることを考え、思いついたのは、被爆者の考えを受け継いで伝え続けていくことでした」
被爆4世の中島さんが、平和活動に興味を持ち始めたのは中学2年の夏休み。市の交流事業で、米国の姉妹都市であった原爆展を訪れた。客やホスト家族に尋ねられても、学校で習ったことしか話せない。キノコ雲に丸を描いた絵が会場の外に何枚も張られていたのが衝撃だった。「核兵器はいけないものだと聞いてきたのに、肯定する人がいるんだなあって」
中島さんは帰国後、曽祖母がどんな体験をしたのか母や祖母に尋ねてみた。曽祖母は詳しく語っておらず、祖母は「元気なうちに聞いておけばよかった」と悔やんだ。つらい被爆体験は、家族内でも継承することが難しい現実があった。
信子さんは原爆投下時には15歳。県立長崎高等女学校の4年生で、学徒動員で行った三菱兵器製作所で被爆した。中島さんは、2年前の交流会で出会い、当時の自身と同じ歳だった点に強く引きつけられた。
体験の継承に取り組むほかの2人と約10回会って話を聞いた。体験を原稿にまとめては信子さんに何度も確認してもらった。どう伝えるか迷った末、被爆直後の体験やメッセージ部分は女性自身に映像で語ってもらうことにした。
信子さんは原則、匿名希望。交流証言者の講話でも、名字は伏せることを求めている。そんな信子さんが、中島さんらの依頼で、映像で顔を出して証言した。信子さんは取材に「3人に会って、少しでも自分の体験をつないでいってもらえればと思った」と話した。
昨年3月、最年少で初舞台を踏んだ中島さんはこう感じている。「被爆者が、うちに秘めたつらい体験を自分から語るのは難しい。若者が動けば、応えてくれる人は必ずいる」
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル