謀反後の山崎の戦い 光秀は土壇場で重臣に見限られた?

 本能寺の変に参加していた明智光秀の家臣が語ったとされる情報も盛り込まれている「乙夜之書物」には、戦国時代の貴重な情報が残されている可能性がある。その内容を検証しながら、3回にわたって、謎の多い本能寺の変の実像を探ってみる。連載の最終回。

 天正10(1582)年の本能寺の変から87年後にまとめられた「乙夜之書物(いつやのかきもの)」。この書物には、主君の織田信長(1534~82)を討ち取った明智光秀(1528?~82)が、「中国大返(おおがえ)し」と呼ばれる日本戦史上、屈指の大強行軍を敢行した羽柴(のちの豊臣)秀吉(1537~98)と激突した「山崎の戦い」についても詳しく書かれている。戦況を再現してみよう。

 山崎の戦いが書かれているのは、1669年に成立した「乙夜之書物」の上巻だ。光秀の旧臣とみられ、のちに加賀藩(現在の石川県と富山県の一部)の藩士となった進士作左衛門という人物が語った内容として、次のように書かれている。ちょっと長いが、該当部分を紹介する。

虚構説も出ている天王山、やはり天下の分け目だった?

 【大意】明智光秀は、本能寺と二条御所の両方で勝利を得て、織田信長・信忠父子を討ち、その後、しばらく京都を保った。そうしたところで、安土へ向かった。安土城の御蔵に残されていた金銀財宝を奪い、自らの軍勢に分け与えた。ところが、その折に羽柴秀吉が中国の毛利氏と和睦し、京都へ攻め上っているとの報に接した。安土城に明智左馬助(さまのすけ)を残し、光秀は勝立寺(勝龍寺の誤りか)へ向かい、6月13日に合戦(山崎の戦い)に臨んだ。

 光秀は本陣をヲンボウガ塚に置…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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