丸太の木を並べ、その上にヤシの葉を敷いた高床式の野戦病院。ベッドに横たわり、息絶える負傷兵。
香川県三豊(みとよ)市に住む政本道一(まさもとみちかず)さん(99)の自宅には、戦地の記憶が描かれた紙芝居が置かれている。
政本さんは戦時中、東部ニューギニア(現パプアニューギニア)で負傷兵を救護した元陸軍の衛生兵だ。趣味の絵手紙を元にした紙芝居のそばに腰掛け、ゆっくりと話し始めた。
『野戦病院では、横におった兵士が死んだいうたら、すぐにその後に負傷者が入ってくる。いかにようけ、死んだかわかりゃあせん。2日と生きとらんですよ。もうとことんやられて、入ってきますけんな』
1943年春、政本さんを乗せた輸送船が広島・宇品港を出港した。行き先を知らされずに上陸した先は、約4500キロ離れた南方の島。死んでも帰れぬニューギニア――。当時、そう呼ばれたほどの激戦地だった。
「殺してくれ!」
そう叫んで暴れる負傷兵の体を、政本さんら5、6人で押さえつける。軍医が銃弾を取り除こうと傷口を切開するが、麻酔薬は底を突いていた。負傷兵は手術中に激痛で気を失った。
戦況は悪化し、負傷兵が担架で次々運ばれてきた。目玉が飛び出ていたり、手足がなかったり。虫の息の兵士を前に、軍医は「もう駄目だ」とつぶやいた。
政本さんの耳に残るのは、若い兵士たちの最期の言葉だ。政本さんにしがみつき、涙を流しながら、こんな言葉を残して逝った。
「お母さん、すまなんだ」「お母さん、助けて下さい」「お母さん、ありがとう」
既婚の兵士たちの多くは妻や子の名前を呼んだ。
彼らの手を握り、体を抱き、声をかけた。「心配するな。必ずお前の言い分を家族に届けるから」
『そう言うたら、安心して死んでいくんですよ。そのやりとりがもうな、涙が出ますよ。わしは何遍泣いたか、わかりゃせん。それが衛生兵の仕事ですけんな』
「家族にせめて届けられたら」。遺髪を切り、かばんに忍ばせた。
野戦病院で苦しむ負傷兵たち。そのなかに、政本さんの「親友」がいました。しかし、その瞬間は訪れました。
医薬品や食料が届かなくなり、病院を解体する日が来た。上官からこんな命令が下りた。「患者を後方へ護送せよ。移動できない患者は自決せよ」
どうしても見捨てられない負傷…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル