著名人が父のことを語る連載「おやじのせなか」。今回はデジタル版限定のロングバージョンです。
父親は典型的な会社人間で転勤族でした。早朝に出勤し、子どもが寝てから帰る。いつもムスッと険しい顔で近寄りがたかったけれど、大阪の吹田市で過ごした小学校低学年の頃は、たまの休みにキャッチボールしたり、ストで運休になった電車の線路を一緒に何駅分も歩いたりした記憶があります。
豊中市に住んでいた小5の時、仙台へ引っ越すことに。空港で会社の人たちに「松本君バンザーイ」と見送られ、胴上げされていた。昭和の企業戦士って感じですよね。父親は当時40歳。大阪で生まれ育った人間なので、東北に行くというのはそれだけ遠く、ある種の覚悟があったかもしれません。そこから全国を転々とする転勤生活が始まったんです。
僕にすれば、どこへ行っても2年ほどで、ようやくなじんだ頃に転校させられる。ずいぶん泣いて抵抗しましたね。豊中の小学校は1年数カ月だけ、仙台では中学がすごく楽しく充実していたのに1年生の2学期途中で青森へ。そのまま青森の高校に行きたいと思っていたら、「また転勤があるかもしれないから」と函館の私立に進み、寮生活をすることになった。当時の会社って、家族や子どもの都合なんか一切お構いなしだったんでしょうね。
僕は高校で成績が急降下して、寮生活も窮屈でなじめず、バンドに熱中したり、忌野清志郎さんの影響でヘッセの小説を読みふけったり、現実逃避気味でしたね。一度、飲酒が見つかって停学になったことがあるんです。母親が青函連絡船で迎えに来て、青森の自宅で1週間の謹慎。これは父親にどつかれるなと覚悟して玄関を入ったら、えらい素っ頓狂な声で「おかえりー」と迎えられて、拍子抜けしたのを覚えています。
父親とは中学の時に殴り合いのけんかもしたし、高校に入ってからもピリピリした関係で、距離を測りかねていたんじゃないですかね。「停学ごときで動揺せず、威厳を示さないと」「でも、頭ごなしに怒ったらあかん」と悩んだ末に出てきた言葉が、素っ頓狂な「おかえりー」だったんじゃないかと。隣にいた母親は噴き出しそうになったそうです。
就職活動でいったん内定を得た飲料メーカーを断り、新聞社を受けると言うと、すごく反対されました。父親は生活のため、大学で紹介された大手電機メーカーに即決した。ばくちや株をやり、家にお金を入れない自分の父親が「反面教師」だったらしく、安定した会社の内定を断る僕を理解できなかった。「仕事は好き嫌いで選ぶもんじゃない」と何度も諭されました。だから、神戸新聞を辞めた時は事後報告です。退社後に初めて寄稿した雑誌を見せると驚いていましたが、もう辞めてしまった後だから、どうしようもない。
僕は転校を繰り返したせいか…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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