榎本瑞希
1955年に長崎初の被爆者組織「長崎原爆乙女の会」を立ち上げた一人、辻幸江さんが5月26日に95歳で亡くなった。70年の長崎市の平和祈念式典では、被爆者代表として初めて「平和への誓い」を読み、「核兵器の禁止は、被爆国である日本国民こそが率先して広く世界に訴えなければならない」と訴えていた。
三菱長崎製鋼所で勤務中、全身に閃光(せんこう)を浴びた。会の後身「長崎原爆青年乙女の会」が編んだ体験記によると、戦後出産した男児を生後9日目に亡くし、離婚。「ケロイド、子供の死、離婚、鉄槌(てっつい)で打ちのめされたように二重三重の苦しみを背負いこんだ」
その後、被爆者の渡辺千恵子さん(93年に死去)らと知り合い、一緒に編み物の内職に励んだ。55年、渡辺さんらと女性5人で乙女の会を旗揚げし、新聞配達や学校の事務補助をしながら活動した。
同年8月、広島で開かれた第1回原水爆禁止世界大会に山口美佐子さん(故人)と会を代表して参加。「生きていてよかった!」と口にしたことを、体験記に記している。80年代には国家補償を求める運動にも参加した。
70年代から親交を結んだ長崎原爆被災者協議会の副会長・横山照子さん(79)は葬儀で、ひつぎに2羽の折り鶴を捧げた。「被爆者が口を閉ざしていたころに表舞台に立ち、長崎の運動を立ち上げてくれた人。私の基礎になっている」と話す。運動について辻さんは横山さんに、「この火を消してほしくない」と話していたという。
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル