コロナ禍で人口が密集した都会の脆弱(ぜいじゃく)さが浮き彫りになりました。団地で進む高齢化、空洞化も深刻な問題です。一方、「過疎」の発祥とされる中国地方で、これまでにない生き方が広がっているといいます。島根県に暮らす、「みんなでつくる中国山地百年会議」会長で「持続可能な地域社会総合研究所」所長の藤山浩さんに聞きました。
ふじやま・こう 1959年、島根県益田市生まれ。一橋大経済学部を卒業後、広島県の高校教諭などを経て、98年、島根県の中山間地域研究センターの研究員に。退職した2017年、益田市に一般社団法人「持続可能な地域社会総合研究所」を開設。著書に『田園回帰1%戦略』(農文協)、『「小さな拠点」をつくる』(同)ほか。
100年間、毎年1冊刊行
――2019年、中国地方に拠点を置く有志で雑誌「みんなでつくる中国山地」を刊行しました。「過疎は終わった!」と宣言し、100年間、毎年1冊、過疎地の動きを追う雑誌を刊行する長大な計画です。
過疎の集落でいま、人が抜けた跡に染み込むように、ちょっとずつこれまでとは違う生き方の選択肢が増えています。いくつもよりどころを持ち、渦と渦が共鳴して、より大きな渦になっている。
「持続可能な地域社会総合研究所」では、全市町村の人口分析をしています。その結果、僕が住んでいる中国地方では、山間や離島といった小規模自治体で人口の社会増が始まっていることが明らかになりました。たとえば岡山県の西粟倉村、新庄村、島根県の邑南町、広島県の北広島町などです。
これはすごいことが起きているぞ、と。この動きを可視化するメディアとしてはじめたのが、「みんなでつくる中国山地」の刊行です。
過疎の「発祥」中国山地
――なぜ、中国山地なんでしょうか。
元々、中国山地は人口流出が早くから始まっていました。「過疎」という言葉の発祥地とされています。江戸時代は木炭を使った「たたら製鉄」の中心地だったのが、明治期に入り、近代的な製鉄が始まったことで、産業が失われました。さらに、ガスの普及に伴って木炭の需要が減り、人口流出のきっかけとなりました。
早くから過疎が進んだ結果、地域内で、野球チームでいうレギュラーポジションが空いたんです。本当に人がいない。そうなると地域の人々の意識も変わっていく。誰か入らない限り、この野球は続かない、と外から人を受け入れるようになるわけですよ。過疎の終わりは、過疎の先行地域から始まるんです。
後半では過密な都会が内包する危うさや、地域での持続可能な暮らしへの道筋を聞いています。
もう一つ、中国山地の大きな…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル