10年前、京都府内の日本海沿いの小さな町。
男は中華料理店へ入った。注文した中華丼や唐揚げを食べ、ビールと焼酎を飲み終えた。「おい」。店主に声をかけ、ナイフを突きつけた。レジ近くの箱をひったくり、逃げた。
だが、箱を開けてみると現金はなかった。入っていたのは売上伝票だけだった。
男は百貨店に駆け込んだ。トイレに入り、バッグにしのばせていた刃物を取り出した。シャツをまくり上げ、腹に突き刺した。床に倒れ込んだ。腰に巻いたコルセット越しに血がにじみ出て、そのまま意識を失った。
男は絶望していた。
この数カ月前。工事現場での仕事のあっせんを約30年間にわたり頼んできた手配師の男性が、突然に姿を消した。仕事が得られなくなり、毎日の食事代にも困るようになった。その手配師以外に頼れる人はおらず、男は路頭に迷った。
男は、運転免許証や住民票などの身分証明を何一つ持っていなかった。それどころか、自分の氏名や正確な年齢さえわからなかった。
男には、20代半ばまでの記憶がほとんどなかった。
病院を抜け出した先で…
記憶を失ったのは、鳥取・米子の工事現場での事故がきっかけだった。後に周囲からは、「26~27歳」ごろのことだと言われた。
クレーンにつるされていた22ミリの鉄板が、数メートル上から落ちてきた。安全ヘルメットとともに頭蓋骨(ずがいこつ)が割れた。
約1週間後に目覚めると、全身が白い包帯で巻かれていた。頭蓋骨骨折、左足の粉砕骨折、内臓損傷、そして、記憶障害。
質問を重ねてきた脳外科医から言われた。「記憶は少しずつ戻ってくるかもしれない」。会社の上司や看護師らは気の毒そうに見てきたが、自分では特に何も感じなかった。「おれはそういう人間なんだ」。そう思っただけだ。
半年後、退院の日が迫っていたある日の真夜中に、病院を抜け出した。勤務先は高額の医療費をまかなう余裕がなかった。小遣い程度の現金を渡され、遠方への逃亡を指示されていた。勤務先には出身地などを伝えていなかったらしく、帰る先は分からなかった。
求人の貼り紙で見つけた関西の工事現場で、長年の付き合いとなる手配師の男性に出会った。その手配師に任せれば、仕事を探す手間が省けた。現場ごとに必要な作業員の登録も、偽名で済ませてくれた。
手配師は男を「てつ」と呼んだ。幼いころ、自分を「哲(てっ)ちゃん」と呼ぶ友だちがいたことをかろうじて思い出し、手配師にそう伝えたからだ。
各地を転々とし、工事現場の宿などで寝起きをした。大病にもかからず、健康保険や住民票がなくても特に問題なかった。記憶をそれ以上取り戻す必要も感じず、30年ほどが過ぎた。
思い出した「かがわ」「たどつ」
手配師に去られ、中華料理店で事件を起こした後に自殺を図った男は、容体の回復後に強盗などの疑いで京都府警に逮捕された。2010年5月のことだった。
男は容疑を認めたが、身元がわからない。府警は指紋などから前科前歴を洗ったが、見つからなかった。レコーダーで話しぶりを録音し、特徴的な方言がないかも探ったが、長年各地の工事現場を転々としていたためか、標準語に近かった。
府警の取り調べで、男は何度も記憶をたぐるように求められた。記憶を取り戻す意思を持っていなかった男にとって、過去と向き合う作業はほとんど初めてだった。
「かがわ」「たどつ」
思い出した。住んでいた地名だ。両親は幼いころに亡くなり、漁業で生計を立てる親類の夫婦に育てられた。養父の名は、「中野邦夫」だった――。
府警の捜査員は香川県多度津(たどつ)町に飛んだ。男が手書きで描いた地図には、学校のそばに川がある。その風景の小学校を探り当て、男の推定年齢から、該当しそうな数年分の卒業アルバムを借りて戻ったという。
拡大する
だが結局、身元は特定できなかった。町内に中野姓の人は多くいたが、名まで一致する人はいなかった。
「哲ちゃん」の通名のまま、公判は進んだ。男は実刑判決を受け、滋賀刑務所に入った。
「普通の生活、やっと持てた」
3年余りで出所し、更生保護施設に向かった。「出たら必ず戸籍をつくれ」。刑務官からの忠告を守り、施設から弁護士を紹介してもらった。
戸籍を新たにつくる「就籍(しゅうせき)」の手続きだ。日本語を使い、日本のことわざの知識もあることなどから、日本人であることが家庭裁判所で証明された。
新たな氏名は自分で決めた。姓は「津和野」。記憶を失った後、一時期働いた島根県津和野町の城下町が好きだったからだ。
誕生年は「昭和28年」にした。「巳(み)年生まれ」と言われた記憶があり、戦時生活の記憶が一切ないからだった。
拡大する
久保浩「霧の中の少女」(1964年発売)、松島アキラ「湖愁(こしゅう)」(61年発売)……。いま1人で暮らす京都市内のアパートで聴くのは、記憶を失った時期に流れていた歌謡曲ばかりだ。心臓の持病を抱え、足も不自由だ。二つの病院に通うとき以外、人と会う機会もほとんどない。でも思う。
「普通の生活がやっと持てたんじゃないかな」
残りの人生、多くは望まない。養父母が生きていても、高齢なので自分だとわからないだろう。記憶が戻らなくてもいいんだ。
そう、自分に言い聞かせている。
記者は香川県多度津町を訪ねた
「津和野さん」は一体、何者だ…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
Leave a Comment