長官に直訴した小屋3代目は36歳で遭難死 尾瀬を守る灯は消えない

 尾瀬が紅葉の見ごろを迎えている。尾瀬沼や本州最大の湿原・尾瀬ケ原が広がり、豊かな植生と美しい景観で知られ、ハイカーに人気のエリアだ。

 群馬と福島の両県の間にある尾瀬沼をめざした。標高2千メートルの峰に囲まれた地で、車では行くことができない。

 群馬県片品村の入山口・大清水から入り、少し先の一ノ瀬までは低公害車両に乗り、それから先は「峠の道」を歩いていく。車道はなく、人が歩ける古道だけが残る。

 その理由は、半世紀ほど前、「革命的」「蛮勇」と驚かれた出来事にあった。

国が10億円の補助金を出した道路工事

 両県を結ぶ自動車道の計画が中止になった。すでに群馬県が5億円を支出し、国が10億円の補助金を出して工事中だった。

 さらに時をさかのぼること10年弱。1963(昭和38)年、群馬、福島、新潟の3県が尾瀬を中心に広域観光開発をしようと協議会を結成し、共同開発に乗り出した。それぞれが車道工事を進めていた。

 中止になった問題の道路は、群馬と福島の延長91キロを2車線で結ぶ計画で、群馬側の県道は尾瀬沼の手前にある三平峠の中腹まで迫っていた。長く旅人を慰めてきた三平峠の近くから湧く泉(岩清水)も土砂に消えようとしていた。

 ミズバショウや紅葉を求めて、年数十万人が歩いて入山する中で工事は進んで行く。車道が完成して、さらにマイカーやバスが乗り込んでくれば、尾瀬の自然がどうなるのか危ぶまれていた。

 開発が善とされる時代だったが、1971(昭和46)年7月、尾瀬沼のほとりの山小屋「長蔵(ちょうぞう)小屋」の3代目・平野長靖(ちょうせい)さんが、発足直後の環境庁の大石武一長官に道路の中止を直訴した。

当時の環境庁長官の自宅に向かった

 それは7月21日の夜のことだった。

 長靖さんはテレビ局の記者になっていた友人に案内されて、東京都内の長官宅を訪ねた。

 〈平野はポツリポツリと三平峠の破壊の現状を長官に話し、長官はすぐ納得してくれて、話はトントン拍子にいったと記憶している〉

 「尾瀬―山小屋三代の記」(後藤允著)は当時を振り返る友人の言葉を紹介している。

 実は、苦しんだうえの行動だった。

自然を相手に営業を営む矛盾

 長靖さんは自然破壊を見過ごせないと思う一方、自然相手に営業を営む「矛盾」を心に抱えていたからだった。

 その思いは、直訴直前に寄せた朝日新聞の「声欄」に吐露されている。掲載は6月24日付の朝日新聞朝刊(東京本社版)。

 「峠には細い道があった」という書き出しの投書は、うめきにも近いものだった。

 〈毎年、小さな声で無念さを語り続けてはきたが、なぜ反対運動をしないのかと問い返されると、一言もなかった〉

 〈暮らしに追われたとはいえ、あまりに非力だった私たち自身を責め、あざけるのみだ〉

 〈倒された木々と、枯れてゆく泉の前に、それに日本の次の世代の前に重要な共犯者は頭を垂れつづけるだろう。自然に心を寄せる各地のみなさん、お笑いください〉

 直訴から10日ほどたって、大石長官は約束通り尾瀬に入った。

全国に広がった「ごみの持ち帰り」

 リュックサックを背負い、数日間にわたって尾瀬を視察した。「自然保護のためには蛮勇をふるいたい」という言葉とともに歩き回った。

 そして、視察後にこう述べた。「尾瀬は国民の宝だ」「変動の時代に、一度決めたからといって固守するのはおかしい」。進行中の工事は中止された。

 「守る会」も結成され、東京・銀座で「尾瀬を破壊から守ってください」と署名活動も展開された。

 これを機に全国的に自然保護運動は盛り上がる。今日に続く「ごみの持ち帰り」も尾瀬から各地に広がった。

 しかし、その年の12月、長靖さんは吹雪の峠の道で遭難死した。36歳だった。日々の苦悩が体力を奪っていたとみられる。

吹雪の峠で倒れる

 「観光開発反対運動の火付け役、といえば時の英雄のようだけれど、地味で無口で、つましい人柄だった」と、直後の天声人語はその死を悼んだ。

 翌年の夏。ちょうどニッコウキスゲが真っ盛りの頃、長靖さんの埋葬式が尾瀬沼のほとりで開かれた。

 各地から多くの人が駆けつけた。家族を伴って参列した大石氏は「君のともした自然保護の火は、決して消えないだろう」と別れの言葉を贈った。

 いまも峠の道を歩くと、森に残る大きな橋が当時を伝え、車道跡にヤナギが育つ。三平峠の泉は工事の影響で一度はつぶれたといわれるが、かれずに今日もハイカーを喜ばせていた。

生前に残した41文字

 峠を越える。歩いてのみ行ける尾瀬沼は静かで、野鳥のさえずりや草花が風で揺れる音が響く。

 尾瀬沼が見える丘に長靖さんの墓はあった。生前に残した言葉が刻まれており、読み返した。

 まもる

 峠の緑の道を

 鳥たちのすみかを

 みんなの尾瀬を

 人間にとって

 ほんとうに大切なものを

 長蔵小屋はいま、父の死のときは幼かった長男太郎さん(54)が受け継ぐ。「小屋を訪ねたい登山客の期待に応えていきたい」

 尾瀬は山も湿原も色づいている。(張春穎)

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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