広島原爆の惨禍を生き延び、後に修復された「被爆ピアノ」。爆風や熱線のすさまじさを示す生々しい傷痕を残しつつ、今も国内外のコンサートで実際に使用されているが、実は長崎市にも原爆に遭った1台が現存する。35年前に市に寄贈され、今は長崎原爆資料館収蔵庫の奥にひっそりと眠る。原爆の悲惨さを伝える長崎の被爆ピアノの歴史をたどった。
【写真】ピアノには爆風で割れたガラス片によってついた傷跡が残されている
そのピアノは、ヤマハ製アップライトピアノで、製造年は不明。原爆投下時は爆心地から2・8キロの民家に置かれていた。爆風によって飛ばされたガラス片が刺さった跡が残っている。音程がずれているものの、鳴らすことは可能だ。
所有していたのは被爆者の松田セツさん=1985年、77歳で死去=だ。息子の勝三さん(75)によると、音楽好きだったセツさんが、自分の子どもたちが演奏できるようにと昭和初期に購入したという。一家は被爆直前の1945年、現在は市指定史跡になっている日本家屋「心田(しんでん)庵」(同市片淵)に移り住み、ピアノも家屋内の一角に移された。
「被爆資料として役立ててほしい」
当時1歳だった勝三さんは、原爆の爆風で散乱したがれきに埋もれ、1週間程度生死のはざまをさまよったという。ピアノに刺さったガラス片はセツさんが取り除いた。
終戦後、勝三さんも家に置かれたピアノをよく弾いた。きょうだいの誰かが音を鳴らせば、別の誰かが歌いだす。にぎやかな家の中心に被爆ピアノがあった。だが、子どもたちが成長するにつれて次第に使われなくなった。
亡くなる前年の84年、セツさんは「被爆資料として役立ててほしい」とピアノを長崎市に寄贈した。その後、2006年の同館の企画展で1度展示されたものの、その後は収蔵庫で保管されたままだ。
被爆2世として広島の被爆ピアノの修復に長年携わり、来年公開される映画のモデルにもなった調律師、矢川光則さん(67)=広島市=は、収蔵庫で長崎の被爆ピアノを確認したことがあり、「修復は可能」とみている。ただ、資料館に寄贈された被爆資料は現状での保存が前提。今後、修復予定はなく、広島のピアノのように演奏活動などに活用するのは難しい状況だ。
勝三さんは「被爆の実相を示す資料として、まずは多くの人にピアノの存在を知ってもらいたい」と願っている。 (華山哲幸)
西日本新聞社
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