今年で被爆から76年を迎える長崎市。爆心地の近くにある長崎原爆資料館(長崎市平野町)は今年、開館25年を迎えた。被爆資料を劣化から守りつつ、多くの資料を寄せてくれた市民の思いをどう生かすか。学芸員が1人しかいない中で模索を続けている。(榎本瑞希)
「糸がほつれてきている」。奥野正太郎学芸員(35)は2012年ごろ、常設展示室につるしてあったズボンの異変に気づいた。
爆心地から南東に約700メートルにあった長崎医科大(現長崎大医学部)の角尾晋学長が被爆時にはいていたものだ。爆風による大量のガラス片を浴び、血痕と無数の裂け目がそのすさまじさを物語る。1985年に資料館の前身・長崎国際文化会館に寄贈された。和紙などを使って補修する方法もあるが、「手を加えることにはリスクもある」。検討を重ねた末、ズボンを寝かせて展示することにした。
奥野さんは2008年、資料館初の学芸員として着任した。熊本大学で中世史を専門に学んでいたが、恩師から「何十万という人に展示を見てもらえる」と背中を押されて帰郷。「被爆者に育ててもらってきた」と話す。原爆資料館は博物館法に基づく博物館ではないとして学芸員を設置してこなかったが、市が被爆者の高齢化を見据えて奥野さんを採用した。15年にもう1人採用したが今春退職し、後任が着任するまで奥野さんだけだ。
奥野さんは展示物へのダメー…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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