戦後、被爆者らは自ら、国の援護策拡大を求め、核廃絶を訴える運動を作り上げてきた。当事者による訴えの切実さは、国や国際社会を動かすテコになった。今、高齢化や団体の活動基盤の弱体化が進み、運動は岐路を迎えている。その果たしてきた役割を振り返り、今後の展望を探る。
長崎市の岩永千代子(85)が7月26日夕、自宅で電話を取った。広島で国が定める被爆地域の外で「黒い雨」を浴びた人を被爆者と認めた高裁判決への上告を、国が断念したという一報だった。「えぇ、歓喜。言葉がありません」と話しながら涙があふれた。
長崎への原爆投下時、岩永がいた旧深堀村の地点は爆心地から南南西へ10・5キロ。国が定める被爆地のすぐ外側だったため被爆者と認められず、「被爆体験者」と区別されてきた。広島の原告勝訴は自分のことのようにうれしかった。
どの範囲の、だれを被爆者と認めるのか。「被爆地域」の線引きを巡っては、広島と同じく長崎でも国との攻防の歴史があった。
国が被爆地域を最初に定めたのは1957年。同年施行の原爆医療法で、国は旧長崎市の全域と、隣接する村の一部を指定した。
だが、爆風による被害が出た旧長与・時津両村(爆心地の北5キロ余)などは、行政区域の線引きにより対象から外れた。当事者たちは「認定が狭すぎる」と声を上げた。被爆者団体を中心に、拡大を求めて運動を展開。国は74年と76年の法改正で被爆地域は拡大され、爆心地から南北に半径約12キロ、東西に同約7キロという現在の形になった。
ただ、原爆投下時の行政区域をもとに線引きしたいびつな形の「被爆地域図」により、爆心地からの距離が同じでも被爆者になる人、外れる人が出て、不公平感の元凶となってきた。
爆心地から半径12キロ以内…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル