「鬼滅の刃」で、炭治郎と禰豆子が向かった浅草。
江戸時代、浅草寺の北側は「奥山」と呼ばれ、浅草寺の参詣(さんけい)客が一休みする茶屋や土産物屋のほか、曲芸などの見せ物小屋がひしめく日本一の歓楽街だった。
実は、いま書いた一文は当初、「曲芸や珍獣の見せ物小屋などがひしめく」と書こうと思っていた。しかし、江戸東京博物館(東京都墨田区)の沓沢博行・学芸員が、「浅草寺で珍獣を見せ物にした、というのは異論があるかもしれません」と教えてくれた。
浅草からだと隅田川の対岸に位置する両国には、相撲興行などが行われていた寺院「回向院」がある。江戸時代に回向院でヒョウの見せ物があり、客からカネを取って生き餌を与えさせるなどしたことがある。このヒョウを浅草寺にも連れて行ったという資料を見つけ、「見せ物にした」と書こうと思っていた。ちなみに、当時はヒョウではなく「メスの虎」という触れ込みだった。
沓沢学芸員によると、確かにヒョウを浅草寺に持ち込んだそうだ。しかし、境内での殺生や肉食はタブー。客に生き餌を与えさせてカネを取る商売などは、当然ダメ。野菜しか与えないという約束で一度はヒョウを境内に入れたものの、すぐに禁じられたそうだ。
江戸後期から明治初年にかけて奥山を取り締まっていたのが、町火消し「を組」の頭だった新門辰五郎。娘の芳は、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の妾(めかけ)となる。辰五郎はNHKの大河ドラマなど、時代劇で繰り返し演じられており、ご存じの方もいるのではないだろうか。
この「奥山」のにぎわいをそっくり移転させたのが、「鬼滅の刃」にも登場する「浅草公園六区」だ。現在の「浅草ビューホテル」から道路を挟んだ東側一帯である。
明治時代に公園として整備されるまで、ここは田んぼだった。
江戸の町は、火災が多発した…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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