2011年3月11日金曜午後、地上の気温5度。
午後2時45分仙台着の大阪発日本航空便は、遅れがアナウンスされていた。同40分に中国大連行き、41分に大阪行きが飛び立つ。
奇跡的に、滑走路から旅客機が1機もいなくなったそのとき――。
震度6強の激震が、宮城県名取、岩沼両市にまたがる仙台空港を襲った。
空港ターミナルビルの天井からほこりが舞い落ち、白煙が立ちこめる。夕方便を待つ人たちから悲鳴があがった。柱につかまる人、へたり込む人、物が倒れる音。1階のコーヒーショップで休憩中だったパイロットらが必死で棚を抑えた。
地上30メートルのタワーでは管制官が揺れに耐えていた。上空に旅客機はいなかったが、航空大学校機など3機が訓練飛行中だった。波打つ地面に着陸寸前の1機に「ゴーアラウンド!」と指示。間に合った。
ビル内にいた客は外に出るよう誘導された。2月のニュージーランドの大地震で、建物が崩壊したことが頭にあったと、証言する航空会社社員がいる。近隣の住民も集まってきた。
まもなく大津波警報の情報が伝わる。人々は今度は3階建ての空港ビル内へ、上階へと移動を始めた。
迷わず空港を閉鎖 そして黒い波が
3時6分。空港閉鎖。
3時14分。予想津波高が10メートルに引き上げられた。
当時の空港トップは大坪守(66)。国土交通省で管制技術畑を歩み、09年に仙台空港長に就いた。前年の出来事が頭をよぎる。
10年2月28日、南米チリ地震の遠地津波が来るとして、宮城県沿岸などに大津波警報が出された。このときの予想津波高は3メートル。
それを聞き、大坪は名取市のハザードマップを広げた。4メートルの津波なら空港も浸水する、とある。3メートルなら大丈夫か。航空機の運航を続けさせた。結果的に観測された津波は1メートル程度だったが、大坪の判断の是非はのちに議論になった。
火災や地震、航空機事故対策には力を入れながら、津波を想定した空港の備えはゼロに等しかったのだ。
そして3月11日、地震3分後に発令された大津波警報の予想は6メートル。これは大変なことになる。空港閉鎖に迷いはなかった。
揺れから1時間余りがたった3時50分すぎ。
大坪は空港事務所の屋上にいた。海岸の松林の向こうで突然、どす黒い波がぶわっと持ち上がり、どんどん近づいてくる。
空港ビルに避難した人たちから、再び叫び声。ガラスの大窓いっぱいに、信じられない光景が広がっていた。車や木や壊れた家が1階部分に突き刺さる。
電気室は浸水には無防備だった。全電源が落ち、ロビーの時計は4時で止まる。海岸に到達した津波は10メートル以上、空港ビルで3・02メートルに達した。
空港は巨大な存在だ。たくさんの翼、たくさんの旅人が行き交い、様々な職種が働き、騒音をもたらし、命を預かり、地域の経済を支える。その空港を、未曽有の災害が襲った。人々の証言から振り返る。(敬称略)
空港は陸の孤島になり、通信…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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