震災の辛苦と教訓が捨てられた そっくりだった事故二つ

 ――地震が来た瞬間、どのような音を聞きましたか。

 「ものすごい音がしました」

 ――何か見えましたか。

 「上を向いたら隣のビルがうちの家の上へお座りして、それで看板の字の白が見えました」

 1995年1月17日午前5時46分、阪神大震災は発生した。そのとき79歳だった彼女の目の前で、自宅兼雑貨店だった木造2階建ては、倒壊してきた隣の4階建てビルに押しつぶされた。

 ――声はしませんでしたか。

 「大きな声で長男と嫁の名前を呼びました。何の音さたもない」

 ぺちゃんこになった2階で息子(当時50)と嫁(同54)が命を絶たれた。早起きでたまたま店の前に出ていた母親だけが助かった。

 朝日新聞大阪本社の社会部で震災を担当する記者だった私は2000年3月2日、神戸地裁で彼女の尋問速記録を閲覧した。

 法廷での彼女の生の言葉には読み手の胸に響く力があった。朝日新聞(大阪)で同年4月26日に始めた記事連載「震災法廷」の冒頭で、私はその言葉を引用した。

 そのころ「震災法廷」の取材で私が調べた訴訟は全部で17件あった。内容は様々だが、その訴訟記録はいずれも被災者たちの辛苦を伝える貴重な史料になり得るものだった。

後世に残すべき貴重な訴訟記録が無造作に捨てられたり、活用から遠ざけられたりしています。その実情を検証し、是正への動きを6回にわたって追います。

 ところが先月、神戸地裁に問い…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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