風太郎の日記原本を確認 昭和25~27年分、養父の記念館(産経新聞)

 小説家、山田風太郎(1922~2001年)が昭和25~27年につづった日記の原本が、遺族から兵庫県養父市の山田風太郎記念館に寄贈された資料の中から確認されたことが20日、分かった。日記の内容は昭和史の一級資料として高く評価され、すでに「戦中派動乱日記」などで掲載済みだが、原本は遺族に返された後に所在不明となっていた。(谷下秀洋)

 確認されたのは、表紙に「日記 25年5月17日より」とある26年7月31日までの分と、「日記 昭和26年8月1日」の27年12月2日までの分の2冊。それぞれ粗悪なわら半紙を2つ折りにし、青いインクの文字で細かく書き込み、こよりで閉じていた。

 当時の日記は、小学館から平成16年に「戦中派動乱日記」(昭和24~25年分)、翌17年に「戦中派復興日記」(昭和26~27年分)として発行された。しかし、原本は東京在住の風太郎の遺族に返却された後、所在が分からなくなっていた。

 同記念館が遺族から寄贈を受けた資料を整理中、約50冊の創作ノートの間から冊子を発見。同館を運営する「山田風太郎の会」の有本倶子さんが記載内容から日記の原本と確認した。

 風太郎は昭和21年、東京医学専門学校(現東京医科大)の医学生だった24歳の時、探偵小説「宝石」の懸賞小説に「達磨峠の事件」が入選し、作家デビューを果たした。同24年には「眼中の悪魔」などの作品で探偵作家クラブ賞短編賞を受賞。翌25年は医者にならず、本格的に作家活動をスタートさせた時期だった。

 原本には、当時の人気作家としての活動や文壇との交流、私生活などが記録され、文字からは風太郎の息遣いが伝わってくる。25年5月17日の部分には「夕、原田氏、中村夫妻来、ウイスキー、ビールのむ。夜、渋谷新宿のみ泊る。『山屋敷秘図』腹案ねる」とも記されていた。

 有本さんは「日記が寄贈された創作ノートの間にあったことに驚いている。きちんと保存し、風太郎研究に役立てたい」と話している。

【関連記事】


Source : 国内 – Yahoo!ニュース

Japonologie:
Leave a Comment