昭和16年12月8日に先の大戦が開戦して78年。千葉市中央区在住の元海軍整備兵、林茂太郎さん(96)が産経新聞の取材に応じ、米軍機が香取航空基地(千葉県匝瑳(そうさ)市、旭市)に襲来し、猛烈な機銃掃射を行ったことなどの戦争体験を語った。
林さんは大正12年、千葉市で生まれた。昭和16年11月、軍港があった神奈川県横須賀市で軍関連の仕事を始めた。同年12月8日、日本海軍が米国・ハワイの真珠湾を奇襲した。
「日本軍が真珠湾を攻撃したことを新聞で読んで、『やったなあ。これは大変だ』と思った」と回想する。
翌17年、米軍の爆撃機が横須賀上空に飛来したのを目撃した。「開戦して、まだ間がないでしょう。まさか米軍の爆撃機が飛んでくるとは。びっくりした」と語る。
19年1月、林さんは徴兵で香取海軍航空隊整備学校に入り、軍用機の整備を学んだ。兵舎は2階建てで、若い整備兵たちが寝泊まりしていた。午前中が学科、午後は実習が中心だったという。
「整列するとき、動作が遅いと、上官から棒で尻を何発もたたかれる。厳しかったですよ。4キロやせた」と振り返る。
同期の整備兵約200人が輸送船で南方の戦線に送られた。だが、途中、台湾沖で魚雷攻撃を受け、輸送船は沈没したという。
戦争末期。米軍の本土攻撃が激しくなった。香取基地では空襲に備え、掩体(えんたい)壕を設置し、軍用機を収容していた。
昼間、米軍機が編隊を組んで飛来した。狙いを定めるかのように上空を旋回する。やがて米軍機は急降下し、地上すれすれに低空飛行。掩体壕の中の軍用機に向けて激しい機銃掃射を行った。
「日本軍は勇敢だが、米軍だって勇敢だった」
整備学校の炊事場に爆弾が落下し、吹っ飛んだこともあったという。
一方、東京を空襲した米軍の爆撃機が日本軍の攻撃を受け、機体から火を噴いて飛行するさまも目撃した。搭乗員が落下傘で脱出し、千葉県銚子沖に着水したことを記憶している。
20年8月15日、林さんは千葉県内で終戦を迎えた。
「終戦の日は、山に掘った横穴にこもっていた。まだ、戦争を継続すると思っていた」と振り返る。
リュックを背負って帰郷した。家族は温かく迎えてくれた。
林さんは「生きて帰った。これからは親孝行しようと思った。それを一番、覚えています」と静かに語った。(塩塚保)
■香取航空基地 海軍の軍用飛行場で、千葉県匝瑳市と同県旭市にまたがって整備された。滑走路は2本で互いの中央部が十字状に交差していた。また、米軍の空襲に備え、多くの掩体壕が設置され、軍用機を収容していた。昭和20年、特攻隊が硫黄島方面に出撃。米艦隊を攻撃した。
Source : 国内 – Yahoo!ニュース