高校生がストライキ「配給品の処分に疑念」 1945年10月の西日本新聞(西日本新聞)

 〈久留米市外追分県立三井農学校、四五学年生徒約百五十名は十七日より同盟休校を開始、学校当局を狼狽させている〉 【関連】1945/10/4「逆型で驚異的性能」遅かりし新鋭機「J7」  学生のストライキを意味する「同盟休校」という言葉は現在、一般的ではないし、そもそも学生のストライキ自体がほとんど見られなくなった。三井農学校(現在の福岡県立久留米筑水高校)の生徒たちは、何を訴えていたのか。  〈かねて学校内における農産品の処分ならびにこれらの分配、生徒に対する作業用被服類配給などについて生徒間に疑念を生じていたが、たまたま終戦後沈鬱な気持ちのうちに軍の払い下げ物の分配などにつとめたが、その処分がまた生徒の疑念を増し〉ということだったようだ。  記者は生徒たちの求めに応じて取材をしていたのか、その動きが詳しく書かれている。〈四、五学年生徒約百五十名は十七日朝高良山に集合、協議の結果、生産農産物ならびに生徒に対する配給品の処分、勤労動員に対する報酬の処分状況の説明、学徒に対する職員の個人伝役の撤廃など十数カ条にわたる陳情書を学校側に提出することとし、五年生秋吉幸雄君ほか交渉委員を任命して一応解散、秋吉君らは下山後、直ちに片山校長を自宅に訪問したが、校長不在のため留守宅に陳情書を提出し十八日から休校した〉

各地で相次いだ「同盟休校」

 この日の紙面では〈田川工業生も盟休〉の見出しで、同じ17日に同盟休校に踏み切った田川工業学校(現在の福岡県立田川科学技術高校)の生徒たちについても伝えている。ここでは〈護国神社参拝の時、集合遅滞の理由で引率教員が生徒一名を公衆の面前で殴打したことに端を発し、戦時中、学校当局が動員学徒配給用キャラメルその他を横領し、また農園作物を教員が分配したことの非をあげて盟休に入った〉という。ただし、田川工業では学校側が生徒側に是正を約束する形で沈静化したようだ。  三井農学校の同盟休校は19日に生徒代表と校長らが約7時間にわたり協議し、ようやく解決に至ったことが21日の紙面にある。  その後も22日付の紙面には島根県立益田農林学校、24日付には久留米工業学校での同盟休校が報じられている。  終戦後の紙面をにぎわした同盟休校。抑圧された日々から解放された若者たちの思いがにじんでいる。    ◇    ◇  〈〉の部分は当時の記事から引用。できるだけ原文のまま掲載。

Source : 国内 – Yahoo!ニュース

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