母が倒れたのは、約30年前。女性(46)が中学生のときだった。
夜8時過ぎ、部活を終えて帰宅すると、母はろれつがまわらなくなっていた。それでも夕食の支度をしてくれたが、まもなくイスから滑り落ち、口から泡をふいて倒れた。
2歳年上で高校生だった姉がちょうどそのとき塾から帰宅した。姉が救急車を呼んだ。母は病院に運ばれた。
脳出血だった。「すぐに大人を呼びなさい」。医師から強い口調で言われた。だが、女性が小学生のときから父はほぼ別居状態で家に戻らなくなっていて、連絡先も居場所もわからなかった。
母は命をとりとめたが、右半身のマヒが残った。それから1年ほど病院を転々としながら治療とリハビリが続いた。退院してからも、料理や洗濯などの家事は難しくなり、入浴も1人ではできなくなった。
当時の母は50代になったばかり。倒れる前は、事務職と飲食店のパートを昼と夜でかけ持ちし、母子3人の家計を支えた。
料理上手だった。毎朝起きると、姉妹のために大きなお弁当が食卓の上に準備されていた。
そんな母が、牛乳パックをあけることもできなくなった。買い物や調理などの家事一切に加え、母の着替えの手伝いも姉妹の日課になった。
「ごめんね」繰り返す母
「ごめんね」。母は口癖のようにそう言った。母のつらさはわかっていた。だが頼れる母が突然いなくなってしまったことを、現実として受け止められなかった。
「こっちだっておなかすいてるんだよっ」。疲れて帰宅した時など、母からあれこれ頼まれると、思わず大きな声を出し、いらだちをぶつけてしまうこともあった。母は泣き、女性も泣いた。重苦しい家の空気が嫌で、玄関先で立ち止まり、家に足をふみいれることができなかった日もあった。
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姉は大学を卒業した後、教師として働くために家を出た。女性は母と同居しながら大学に通い、卒業後は旅行会社で働くようになった。
女性には、海外で日本語教師の仕事をしたいという夢があった。
20代半ばを過ぎたときだった。自分が母と同居すると姉が言ってくれた。姉妹でバリアフリーマンションを買った。母の介護・見守りを姉に託し、女性は日本語教師のインターンのため英国に渡った。
だが、想像もしない悲運に見舞われた。
ある日、母が泣きながら国際…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル