20年捜し続けた「山本芳翠」、横浜で実った学芸員の執念

 岐阜県出身で、洋画の先駆者として知られる山本芳翠(1850~1906)が約140年前にフランスで描き、所在不明となっていた作品の一部が見つかった。岐阜県美術館の学芸員が「絶対どこかにある」と約20年間、作品を探し続けていた。

 この作品は「白勢和一郎の肖像」の一部。白勢和一郎(1860~1929)とは、新潟県新発田市の豪商・白勢家の11代当主だ。

 1880(明治13)年、白勢は果樹栽培の研究のため、フランスを遊学中、ベルサイユの下宿で親しくなった芳翠に、白馬に乗ったナポレオンのような自身の肖像画を依頼した。

 翌々年の1882(明治15)年、白勢は自身の肖像画と、芳翠が描いた油彩画「若い娘の肖像」、後に国重要文化財となる「裸婦」の計3作品を購入し、日本に持ち帰った。

 芳翠は1886年(明治19年)に、フランスに滞在した約10年間に描きためた作品や模写を日本に向かう軍用艦に載せて送ったが、途中で船ごと行方不明になったと伝えられている。

 このため、渡仏中の芳翠の作品は極めて少なく、白勢が持ち帰った3作品は、渡仏中の芳翠の創作活動を知るための重要な作品になったという。

探し続けた学芸員

 岐阜県美術館で、芳翠などの国内洋画を担当する廣江泰孝学芸員(51)は、同館の学芸員になって約20年間、「白勢和一郎の肖像」を探し続けていた。

 肖像画のうち、白勢の顔の部分は、1972年に東京都美術館が収蔵し、その後、東京都現代美術館に移管された。

 白勢がフランスで購入した芳翠の3作品は、新発田市にあった白勢の自宅で飾られていたが、後に白勢家は絵を手放した。「若い娘の肖像」と「裸婦」の2作品は近くの医師が購入し大切に保管し続けていた。

 一方、白勢の肖像画はやがて、近くの農家の納屋の扉代わりとなり、子どもの雪玉当ての的となった。いつの間にか、所在がわからなくなっていたという。

 廣江さんは「頭部が見つかっ…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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