3人の子を奪った津波 「生きる意味」見失った夫婦に差した一筋の光

 飛び散る木くずに、銀色の吐息が混じる。

 2月中旬の夜。室温2度に冷え込んだ宮城県東松島市の作業場で、木工作家の遠藤伸一さん(54)は本棚を制作していた。

 手元に集中しようとしても、うまくいかない。心の中にいくつもの声が響いて邪魔する。

 「奏(かな)ちゃん、冷たいんだ」「俺だ、俺が殺したんだ」「お父さん、大好きだよ」「あなた、どうして助けてくれなかったの……」

 納品先は米国だ。納期まであと数週間しかない。

 「待ってろよ。あっちの人がびっくりするような本棚、作ってやっからな」

 電動のこぎりの切断音が、ざわめく心を少しだけ鎮めてくれる。でも、「自分だけが生き残った」という罪悪感が、ぬぐい去られることは決してない。

子どもたちに言った「父ちゃんがいるから、大丈夫」

 2011年3月11日、改修を請け負っていた石巻市の水産会社からの帰途、トラックで走っていてもわかるほど地面が揺れた。

 石巻市の自宅には、午前授業で帰宅していた中学1年生で13歳の長女・花さんが、伸一さんの母・恵子さん(80)と一緒にいた。

 近くの渡波小学校で、4年生で10歳の長男・侃太(かんた)さんと2年生で8歳の次女・奏さんを引き取って自宅に連れ帰ると、連絡のつかない親戚の様子を見に行くことにした。

 「父ちゃんがいるから、大丈夫だぞ」。余震を怖がる子どもたちを家に残し、トラックを走らせた。

 親戚は不在で、引き返そうとしたところ、海の方角でパッと砂煙が上がるのが見えた。

 「何だ、ありゃ?」

 家や車が津波に押されて路上に流れ込んでくる。避けようとハンドルを切ったが、だめだった。

 次の瞬間、トラックは巨大な水の塊に持ち上げられた。車内に閉じ込められないよう濁流の中に飛び込み、流れてきた屋根にしがみつく。

 よじ登ったコンビニの屋上で数時間過ごしたあと、水につかりながら、近くの渡波保育所に向かった。

 同じころ、妻の綾子さん(54)は、避難者でごった返す石巻市役所にいた。

 看護助手として働く市内の病院で、激しい揺れに襲われた。家に帰ろうとJR石巻駅に向かうと、水がひざ上まできたため市役所に駆け込み、夜を明かした。

 子どもたちが心配だったが、携帯電話には小学校から「子どもたちは体育館に避難しています」という一斉メールが届いていた。

力なく泣く母、泥にまみれた娘

 翌朝、渡波保育所で夜を明かした伸一さんが自宅に向かうと、家は跡形もなく流されていた。

 「誰かいませんか……」

 力なく泣いている母が、胸に奏さんを抱いていた。

 「奏ちゃん、冷たいんだ、冷たいんだ……」

 伸一さんは、目の前の現実をのみ込めなかった。

 聞くと、母は濁流にのみ込まれた直後に、気を失っていた。津波が引いた後、がれきになった家の中で孫を見つけたという。

 泥にまみれた体を抱きしめると、「ほっぺにチュー」をせがんだ娘は氷のように冷たく、髪からは砂がぼろぼろとこぼれ出た。

 「俺のせいだ。俺が学校から家に連れ戻しさえしなければ……」

 奏さんを保育所に運んで布団に寝かせると、花さんと侃太さんを探すため、自宅の周辺へと戻った。

 家の中で花さんを見つけ、壁を壊して引っ張り出すと、人を笑わせるのが好きで、いつもほほえんでいた顔は泥だらけだった。

 「ごめんな。お父ちゃんがついていながら」。夜、保育所の2階で冷たくなった2人の娘を抱きながら、うなり続けた。

「侃太なら逃げているかも…」 砕かれた期待

 綾子さんは結局、市役所の椅子で2晩を過ごした。

 3日目の朝、渡波小学校に着くと、親戚が言った。「花ちゃんと奏ちゃん、だめだった。侃太くんはまだ見つかっていない」

 突然ほおをひっぱたかれたように、悲しみも怒りもわかず涙さえ出ない。

 保育所に向かうと、伸一さんがたき火を囲みながら待っていた。

 「ごめん、花と奏、助けられなかった……」。2階では2人の娘が、先生のエプロンを掛けられて、横たわっていた。

 「なぜ、助けてくれなかったの?」「侃太と奏は学校にいたはずでしょう?」

 夫を問いただした直後、記憶を失った。

 翌朝から、夫婦は自宅周辺で、侃太さんを探し回った。「侃太なら、どこかに走って、逃げていてくれるかもしれない」。心のどこかでそう期待していた。

 引っ込み思案だった侃太さんは、足が速かった。「マラソンで1番になれるかもしれない」。近くの堤防で毎朝、父子で駆けっこの練習をしていた。

 しかし約1週間後、保育所に自衛隊員が訪ねてきた。津波で流された家近くで小学生とみられる遺体が見つかったという。

 綾子さんが自衛隊の車両に駆け寄ると、荷台に侃太さんが寝かされていた。住民が手渡してくれたタオルで、泣きながら必死に息子の顔をぬぐった。

 旧青果花き市場に運ばれた三つの小さな遺体を前に、伸一さんは思った。「死んでしまいたい。もう、生きている意味なんてないじゃないか」

 3月下旬、綾子さんは避難所に設置された電話で初めて、東京で暮らす両親に事実を伝えた。

 「ごめんなさい、守れなかった」。孫を溺愛(できあい)していた父親にそう謝ると、電話口に母親が出た。

 「お母さん……」。次の瞬間、震災後初めて、わんわん泣いた。

感情を失い、過ごした日々 差し込んだ一筋の光

 震災後の日々を、夫と妻は感情を失い、ロボットのように過ごした。悪い夢を見ていると思い込もうとした。でも、わずかに眠って目を覚ますと、周りの光景は変わっていない。

 「なぜ、子どもたちを助けてくれなかったの」。綾子さんは心のどこかで夫や義母を恨んでいた。何よりも壊れないでいる自分が恨めしかった。

 一筋の光が差し込んだのは初夏だった。

 「伸一さんに頼みたい仕事があって」。震災前、木工の個展に来てくれた新聞記者からの連絡だった。

 石巻市で外国語指導助手をしていた24歳の米国人女性が津波で亡くなった。両親は本が大好きだった娘の遺志を継ぎ、被災地の学校に本を寄付したいと言っている。そのための本棚を作ってくれないか――。

 女性の名は、テイラー・アンダーソンさん。その名前を聞いた時、ハッと思い当たる節があった。

 「ねえ、ガイジン、見たことある?」。奏さんが小学1年生の時、うれしそうに聞いてきたことがあった。「奏、見たことあるんだよ。お笑いが好きな、英語の先生なんだよ」

 それがテイラーさんだった。綾子さんに聞くと、花さんも侃太くんも教え子だったという。

 子どもたちも喜んでくれるだろうか――。そう考えて、伸一さんは本棚を作り始めた。

「こんな風にも生きられるんだ」

 最初の「テイラー文庫」ができたのは11年9月。以来、本棚作りに夢中になった。13年12月にはテイラーさんが勤務した七つの学校や幼稚園に設置された。

 そんな夫の活動を、妻の綾子さんは少し距離を置いて見ていた。

 ところが15年秋、テイラーさんの母・ジーンさんが来日した時、「着物を使ったグリーティングカードを作ってみたら?」と提案され、はっとした。

 津波でわが子を亡くした母親として、同じ苦しみを抱えているはずなのに、ジーンさんは「日本と米国を結ぶ『架け橋』のような仕事がしたい」と願った娘の夢をかなえようと、毎年のように被災地を回り、感謝を伝え続けている。

 「こんな風にも生きられるんだ」と思った。

 自宅跡地に建てたプレハブ小屋で週1回、友人や近くの住民を集め、古い着物を再利用してカードを作る「イシノマキモノ」の活動を始めた。

 お茶を飲んだり、お菓子を食べたりしながら作業する間、小屋には友人たちの笑い声が響く。「ああ、私はずっと1人じゃなかったんだ」と気づいた。

 やがて氷が解けるように、夫や義母を恨む気持ちも薄らいでいった。

 石巻市の災害公営住宅で暮らす義母の恵子さんを、カード作りの活動に誘い、毎週、車で迎えに行く。

 「私が何かを伝えられるなら」と昨秋、市内の震災の伝承施設で働き始めた。

この春、テイラーさんの母校にも「文庫」

 30カ所目となるテイラー文庫は今年4月、テイラーさんの母校である米バージニア州のランドルフ・メーコン大学に設置される。

 伸一さんは「俺はテイラー文庫があったから、今まで生きることができた」と言う。何度も「死のう」と思った。でも、「ここで死んだら、今作っている本棚を納められなくなる。使ってくれている学校の子どもも、悲しむ」と、無我夢中で生きてきた。

 ランドルフ・メーコン大学で開かれる式典には綾子さんと一緒に渡米し、テイラーさんの両親に感謝の気持ちを伝える。

 綾子さんには、こう伝えるつもりだ。「本当に申し訳なかった」。そして、「これまで本当にありがとう」と。三浦英之

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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