教壇で声を張り上げていた先生は、やがて被爆者の象徴的存在になり、いつしか世界的なヒバクシャになった。その傍らで、卒業後も60年以上にわたって、「3年B組」の教え子たちとクラス会を続けていた。入退院を繰り返していた坪井直(すなお)さんが、担任として卒業させたクラスは三つだけ。坪井さんが「宝物」と表現したB組の44人は、坪井先生から生涯をかけて教えてもらったことがある。
「泣かんのよ。泣いても戻ってこん。先生はやりきったんだから」。10月27日、広島市南区の村上美鈴さん(77)は恩師の訃報(ふほう)を知り、何人かのクラスの友人に電話をかけた。電話口で声を詰まらせる級友を励ましながら、自分の声も震えていた。村上さんにとって坪井さんは、ずっと「先生」だったからだ。
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1957年4月、当時31歳の坪井さんは広島県熊野町の町立熊野中学校に転勤し、2年B組の担任になった。B組だった村上さんは始業式の日、坪井先生が教室に入ってくるなり周りが明るくなったことを覚えている。先生はいつも笑顔で、穏やかで、小さなことにこだわらなかった。髪の毛を左右にきっちりと分け、授業中も冗談を言って笑わせてくれる先生を、「嫌いな生徒はいなかった」と振り返る。
そんな先生につらい過去があるとは知らなかった。
放課後の帰りがけ、校内放送で「NHKのラジオをよく聞いておきましょう」と流れた。
96歳まで訴え続けた「核兵器のない世界」 その原動力は
戦後、数学の教員となった坪井直さん。戦後30年、教師らがまとめた体験集では、すでに風化への危機感があったといいます。核と人類取材センターの武田肇記者と広島総局の福富旅史記者に聞きました。
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その夜、勉強の手を止め、眠…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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