福岡県内陸部の川崎町。
石炭産業の輝きが薄らいでいく筑豊のまちで、1966年に生まれた。
炭鉱から出たボタ(捨てた石)の山を見てすごした10代。環境や生き物の関わり合いに興味がわいた。
生態学を学ぼうと長崎大教育学部に進んだ。入ったゼミで学んだのは魚類生態学。長崎大水産学部の大学院に進み、研究を続けた。
職に就くなら学んだことを生かしたい。
〈水産と教育を足して2で割ると……〉
水族館だと思った。
インターネットがまだ一般に普及していない時代。資料に当たり、人と会い、1館ずつ情報を集めた。
九州では勤め口が見つからなかった。東へ、東へ。
日本中がバブルに踊っているのに、水族館で働くのは狭き門だった。
中国地方もダメ。兵庫もダメ。次は京都。
見つかった。
丹後の海のほとり。1年ほど前にオープンした小さな水族館がスタッフを増やそうとしていた。
24歳の春。
◇
「当館は本日、皆さまのたくさんの笑顔と思い出を胸に閉館いたします。誠にありがとうございました」
マイクを握る女性スタッフの震える声を、来館者の拍手が包み込んだ。
あれから30年以上たった今年5月30日。
ロビーで客を見送っていると、一人の女性客がすっと近づいてきた。「小さいころからずっと来てて。すごく寂しくて」。指で涙を拭う女性の目を見つめ、マスク越しに笑顔を返した。
生き物の買いつけや運搬、餌やり、掃除、成長記録の管理……。みんなで力を合わせてやってきた。
「一番の思い出は」と新聞記者に聞かれた。「全部です」と本当は言いたい。
でも、あえて選ぶなら、2頭のゴマフアザラシを北海道から空路で連れてきたこと。94年12月、オープン以来初めてとなる哺乳類の飼育と展示を任された。不安と責任の重さに押しつぶされそうだった。無事に成功して本当によかった。
17年前、水族館長に就いた。3代目で初の女性。20歳ほど上の先代館長に「お前に任す」と言われた。
お客様がいつも新しい何かを発見できるように。そんな展示を心がけてきた。
〈それにしても、最後は急に来たなあ〉
5月30日を最後に閉館することを知ったのは3月下旬のことだ。
いま、57歳。
飼育員でいるのはおしまいだと思う。社内の別の部署で別の仕事をするのか。自分もまだ分からない。
後輩たちの今後も気になる。幼い子を育てる飼育員もいる。できることがあるなら力を貸したい。
「ラストがんばれ」「ラストしっかり」
単身赴任中の2歳上の夫や20代の3人の子どもたちから、そんなメールが届いていた。
〈いつも通りで〉
そう自分に言い聞かせてきた特別な一日がもうすぐ終わる。
横に並ぶスタッフたちは笑顔のまま泣いている。
寂しい。でも、自分の仕事はまだ終わっていない。
ここの生き物は他の水族館などに引き取ってもらう。いろんな調整を進めて、すべてを移し終えるには半年以上かかるだろう。
◇
「生き物たちの行き先を決めて、きちんと送り出さないと。全部終えたら、その時はこみ上げてくるものがあるかもしれません」
吉田史子さんは取材にやわらかな笑顔を見せた。
近畿地方の梅雨入りが発表された翌日。関西電力の火力発電所「宮津エネルギー研究所」のPR施設「丹後魚(うお)っ知館」は34年の歴史に幕を下ろした。
水族館の来館者は延べ約605万人。最後の来館者が帰った午後4時半ごろ、西の曇り空には光が差していた。(富田祥広)
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル