終戦までの40年間、北海道の北には日本領・樺太があった。日露戦争の結果、日本がロシアからサハリン島の南半分を割譲され、一番多い時は約40万人が暮らした。樺太で生まれ育った人々の多くは今、80~90代を迎える。日露戦争開戦から120年となる今月、樺太出身者らの歩みをふり返ってみたい。
北海道美唄(びばい)市で家族と暮らす永井弓子さん(91)は、自宅の居間に1枚の白黒写真を飾っている。3人の子どもと着物姿の母親。左端のおかっぱ頭が、80年余り前の永井さんだ。
生まれ故郷である樺太の写真は、この1枚が残るのみ。あとは全て終戦前後の空襲や引き揚げで失った。
永井さんはロシア国境の約100キロ南にあった恵須取(えすとる)(現ウグレゴルスク)で育った。製紙業や炭鉱業で栄え、樺太で最多の約4万人が暮らした町だ。7人きょうだいの一番上で、秋田出身の父は地元のバス会社で働いていた。
子ども時代で思い出すのは、食べ物が豊かだったこと。「サケやニシン、ホッケにカニも。私の体は浜の魚でできたの」。寒くて栽培できない米も、内地から豊富に届いた。秋には山へフレップ(コケモモ)摘みに行き、父の好きな果実酒にもした。ロシア革命を逃れた白系ロシア人が町でパンを売っていて、「すんごくおいしかった」という。
近所には銭湯や食堂、理髪店、旅館、クリーニング店などの商店が並び、永井さんは父のお使いでよく酒屋へ行った。蓄音機で流す童謡のレコードや、ラジオの大相撲中継を聞くのが楽しみだった。冬は零下30度にも達する恵須取。夏は海に足だけ漬けて、すぐたき火に当たるのが海水浴だった。
樺太には終戦前、植民地である朝鮮から移り住んだ人々が2万人以上いたとされる。炭鉱がある恵須取には特に多く、永井さんの通う学校にも朝鮮ルーツの子どもがクラスに数人いたという。「先生からは『仲良く、差別しないように』って言われてた」
そんな恵須取での生活は、13歳になった1945年の夏、突然に終わった。
樺太
1904年2月開戦の日露戦争後に結ばれたポーツマス条約(05年9月)で、日本がロシアから割譲されたサハリン島の北緯50度以南。朝鮮や台湾と同じ「外地」とされ、43年に内地に編入された。45年8月8日にソ連が宣戦布告して侵攻。46~49年に千島を含め約29万人が日本へ引き揚げ、残留した人も多くいる。日本は51年のサンフランシスコ講和条約で領有権を放棄。現在はロシアが領有権を主張し実効支配している。
ソ連軍将校が家に 「母親を連れていく」
8月1日、家に男の子が生まれた。その約1週間後、ソ連機が恵須取上空で照明弾を落とした。「新聞読めるくらい明るいね」と家族でのんきに話した。しかし国境を越えて侵攻を始めたソ連軍は、同11日に恵須取を空襲。海からの艦砲射撃も加わった。
永井さん一家は山腹に掘られた防空壕(ごう)へ逃げ込んだ。すし詰めの壕内で、生後すぐの弟が泣きやまず、周囲からは「殺してしまえ」という声が飛んだという。空襲がやんで山を下りると、木造平屋の自宅は全焼していた。
「ソ連軍が来る」という情報…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル