72年にわたって広島で愛されてきた銭湯「平和湯」が1月30日に閉業した。開業当初から番台に座り、店を切り盛りしてきたのは客から「おばちゃん」と親しまれる坂井照子さん(88)。坂井さんが「みんなのお風呂」と表現する平和湯の最後の1日に密着した。
【午後1時】感謝の貼り紙「誰が書いたんじゃろ」
広島市中区の中心街から北に約1.5キロ。20棟に約3千戸がひしめく市営基町アパートの一角に、平和湯はある。
アパートの6号館に住む坂井さんが出勤するのは、決まってこの時間。午後4時の開店に向け、ボイラー室の鍵をあける。出入り口の壁には、こんな貼り紙があった。
《祝卒業 長い間御苦労様そしてありがとう!!》
《湯っくり休んで下さいいつまでも御元気で!! 風呂好き一同》
坂井さんが貼り紙をなでる。「誰が書いたんじゃろ。ありがたいことに」
【午後1時10分】11歳の夏、自宅から見たキノコ雲
ボイラーの電源を入れる。ゴーッと音をたてて動き出す。室内に砂ほこりが舞う。カレンダーには30日に「終りです」と書いてある。「さっぱりしとるよ。やりきったけえ、悔いはない」
坂井さんは1933年、広島県大林村(現・同市安佐北区)で生まれた。父は2歳の時に肺炎で亡くなり、母親のはるみさんが1人で育ててくれた。小学校教師だったはるみさんの転勤で、県内を何度も引っ越した。
11歳の夏、爆心地から北東に約40キロ離れた自宅から、原爆のキノコ雲を見た。基町に来たのは16歳。心臓が弱かったはるみさんが「番台ならできそう」と、銭湯を始めた。基町を選んだ理由は覚えていないという。
【午後2時】走って帰宅、番台に座った高校時代
ボイラーの温度計が70度まで上がった。坂井さんが温度を調節しながら、湯のろか器のねじを回す。「握力がのうて、ねじもろくにまわせんのじゃ」と笑う。これから近くのスーパーに昼食を買いに行く。今日はうどん。昨日は巻きずし。「忙しいけえ、ぱーっと食べられるもんがええ」
開業は1950年。高校時代は走って帰宅し、開店から番台に座った。母のはるみさんは66年ごろに亡くなり、広島カープが初優勝した75年に夫が亡くなった後は、ほぼ1人で店を守ってきた。飲食店に勤める長女の佳子さん(65)は同じ6号館の下の部屋で暮らす。長男の一也さん(63)は東京で会社員をしている。
【午後3時15分】ボイラー故障にコロナで閉業決断
「最後のお風呂しましょうか」。牛乳屋から取り寄せたコーヒー牛乳と栄養ドリンクを、脱衣所の冷蔵庫に入れる。入浴剤はミントブルー、ヨモギ、ハイビスカスの中から、ゆずを選んだ。「体が温まるけえ、一番人気じゃった」
閉業を決めたのは昨年10月。ボイラーが故障し、修理代が400万円かかると聞いた。重油代は高騰し、新型コロナウイルスの影響で客足も減った。月・金曜日だった休みは、水曜日も加えた。年内に閉めるつもりでいた。常連客は「やめないで」「寂しい」。1カ月だけ閉業を延ばした。
【午後3時55分】開店5分前、入り口に7人の常連客
開店5分前。入り口の前に常連客が7人集まってきた。
「終わりじゃね」「寂しくなる」「明日からどこ行くん?」「困ったねえ」
【午後4時】名前の知らない同士でカープ談議
「いらっしゃい」。最後の営業が始まった。近くに住む松原良治さん(72)は退職してから、毎日一番風呂に入る。湯上がりの松原さんに聞いてみた。平和湯の魅力は?「きどってないところ。はやりのサウナもジェット風呂もないけど、湯が熱うて、体の芯からあったまる」
同じ時間に平和湯に来る男性と意気投合した。名前は知らないが、一緒に湯船につかれば、カープの話で盛り上がった。
帰り際。番台の坂井さんに近寄り、帽子をとった。
「いままでご苦労さん」
「うん」
「お湯がぬるいとか、シャワーが出んとか、ようけんかしたね」
「うん」
「明日からどうするん?」
「何しようかねえ」
「何もせんと、ばあさんなるで」
「あんたも体に気いつけて」
「はいよ。ありがとね」
入居者の半数が高齢者という基町アパート。坂井さんによれば、昔は浴室を子どもたちが走り回っていたが、最近は客の8割が高齢者という。
【午後5時10分】いつもより長く、約2時間つかった
「考え直してや」
番台の坂井さんに訴えていた…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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