新潟県長岡市や市民が所蔵する戦前から復興期の7枚の写真が人工知能(AI)を用いてカラー化された。市、東京大学大学院の渡邉英徳教授、新潟日報社がてがけた。長岡空襲の記憶や体験者の思いの継承に役立てるのが狙いだ。
1945年8月1日の長岡空襲では、焼夷(しょうい)弾により市街地の8割が焼失し、1488人が犠牲となった。今年は75年の節目の年だがコロナ禍で平和関連行事が縮小し、空襲体験の伝承活動も難しくなる中、新たな試みとしてカラー化プロジェクトが始まった。
拡大するカラー化前のモノクロ写真(提供:清水誠一さん・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト)
拡大する清水誠一さん(88)の父・健治さん(手前右から3人目)の日中戦争出征祝いに親族や父の友人が集まった。隣の男性のひざに座るのが誠一さん=1937(昭和12)年(提供:清水誠一さん・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト)
カラー化は、戦前の沖縄の写真のカラー化を朝日新聞などと手がけた渡邉教授が担当した。「戦前戦中は白黒で認識しがちだが、当然ながら色はあった。当時をカラー化した写真は多くの人にとって新鮮で、関心を高める」と話す。
市所有の写真5枚と個人の2枚を渡邉教授が8~9月にカラー化した。長岡空襲体験者5人に写真を見てもらい、写真にまつわる記憶や体験談を聞き取り。それを参考に渡邉教授が写真の色を補正する、という作業を繰り返した。
写真は22日以降は長岡戦災資料館で閲覧できる。来年以降は市のサイトへの掲載や、アオーレ長岡での展示を予定している。(伊丹和弘)
拡大するカラー化前のモノクロ写真=1945(昭和20)年10月下旬(提供:長岡戦災資料館・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト)
拡大する長岡市柿町の広西寺を学寮とした駒沢国民学校児童。東京に戻る前に撮影=1945(昭和20)年10月下旬(提供:長岡戦災資料館・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト)
拡大するカラー化前のモノクロ写真=1945(昭和20)年(提供:長岡戦災資料館・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト)
拡大する長岡空襲でがれきと市内の様子(表町2丁目)。右奥の塔がある洋風の建物は長岡六十九銀行(現北越銀行)=1945(昭和20)年(提供:長岡戦災資料館・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト)
拡大するカラー化前のモノクロ写真=1945(昭和20)年11月ごろ(提供:長岡戦災資料館・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト)
拡大する長岡空襲3カ月後の大手通りを長岡駅側から信濃川方面に向かって撮影。がれきが多く残っている=1945(昭和20)年11月ごろ(提供:長岡戦災資料館・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト)
拡大するカラー化前のモノクロ写真=1950(昭和25年)7~8月ごろ(提供:長岡市中央図書館・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト)
拡大する戦災復興や産業振興を目指して行われた新潟県産業博覧会の正面切符売り場。長岡博とも呼ばれ46万人が来場した=1950(昭和25年)7~8月ごろ(提供:長岡市中央図書館・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト)
拡大するカラー化前のモノクロ写真=1955(昭和30)年(提供:長岡市・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト)
拡大する長岡空襲から10年後の長岡駅前広場~大手通り。駅前広場には犠牲になった学童を悼む「平和像」(現在は平和の森公園に移転)が置かれている=1955(昭和30)年(提供:長岡市・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト)
拡大するカラー化前のモノクロ写真=1938(昭和13)年(提供:金子登美さん・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト)
拡大する金子登美さん(86)の家族写真。日中戦争から病気で帰国し、村松陸軍病院に入院中の父・忠治さんに抱かれているのが登美さん。後ろに母、左に兄。この7年後の長岡空襲で忠治さんと姉のミスさん(写真右)を失った=1938(昭和13)年(提供:金子登美さん・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト)
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル