77年前の3月17日、神戸は無差別爆撃を浴びた。5月11日、6月5日と続いた大空襲で、主要港として栄えた神戸は焦土と化した。7千人超が命を失った「神戸大空襲」とは何だったのか。体験者の声を聞き、記録をたどった。
米爆撃機のB29がうなるような重低音を響かせる。爆弾で近くの家が崩れたのか。バリバリという音も聞こえてくる。
自宅の床下に掘った1畳半ほどの防空壕(ごう)に家族と身を潜めた少女は、両目と両耳を手でぎゅっと押さえ、音が遠ざかるのを待っていた。「お母ちゃん、死んだらあかん」。自分でも気付かないうちに、何度もそう叫んでいた。
1945年5月11日。国民学校の4年生だった藤本吉江さん(86)は、本庄村・深江(現・東灘区)で体験した空襲の恐怖を鮮明に覚えている。
6人きょうだいの下から2番目。一番上の姉は嫁ぎ、兄2人は軍人を志願して家を出ていた。小さな木造の平屋に、家族5人で身を寄せ合って暮らしていた。深江はかつて漁師町として栄えた。父は魚の行商をしていたが、賭け事が好きで生活は苦しかった。
戦争が長引くにつれ、物資不足は深刻さを増した。授業は徐々に減り、給食の炊事に使うための柴木を林まで拾いに行ったこともある。柴木をまとめて背負うと、縄が肩に食い込んで痛かったのを覚えている。
45年4月からは疎開が本格化し、同級生はほとんど居なくなった。藤本さんも数日後には祖母の実家に疎開する予定だった。
神戸大空襲では藤本さんの親族ら、多くの人が命を失いました。記事の後半では、藤本さんの思いのほか、大空襲の全体像や米軍の狙いを記しています。
ひたすら続くように思えた爆…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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