8歳の僕たちはいつも空腹だった 終戦直後、「銀メシ」を食べた彼は

 「白いごはん、茶わん1杯食べさせてもろたら、その場で死んでもええ」

 「僕は半分でもかめへん。殺されてもええ」

 池田宇三郎さん(85)は、親友とそう言い合った。8歳だった。

 1945年当時は、国民学校(小学校)の3年生。大阪から福井へ集団疎開し、毎日毎日おなかがすいてたまらなかった。

 ごはんは、数えられるぐらいのごはん粒と、麦と豆かすいっぱいのおかゆだけ。

 彼と一緒に、お寺の境内のツバキの実を石で割って食べると、歯茎から血が出た。

 お母さんが持たせてくれたお手玉に入っていた大豆をこっそりと取り出して、1粒ずつ分け合った。

 あまりにひもじくて、彼がシラミをつまみ出して口に入れたこともあった。

 近くにあった軍の訓練所で一緒にゴミ箱をあさり、残飯を食べたこともあった。

疎開先から帰ると

 彼の名前は、中野くんと言った。敗戦後、一緒に大阪に戻ったが、1カ月ほどして、学校に来なくなった。

 先生に聞くと、栄養失調で死んだという。

 中野くんの家の焼け跡のバラックに行った。

 おじだという男性が出てきた。中野くんのお母さんは、彼が帰ってきた後、食べずにほんの少しだけ取っておいた白米を、「銀メシ」にして食べさせたと言っていた。話しながら泣いていた。

 池田さんは今も、折り詰めのふたに2、3粒ついているごはん粒を1粒ずつ口に運ぶ度に、中野くんのことを思い出す。

「このお母さんの気持ちが…」

 池田さんはこの体験を、作文にしている。

 終戦時に国民学校生(小学生)だった人の作文を元新聞記者の谷久光さん(88)とNPO法人「ここよみ」代表の吉原佐紀子さん(73)が募っているのを知って、託した。

 2人のもとには、これまでに240超の投稿が集まっている。

 池田さんの作文を含めた8編を、子育て中の親たちが声に出して読む会が8月6日、東京都世田谷区の世田谷区立男女共同参画センター「らぷらす」で開かれた。

 池田さんの作文を読んだのは、6歳の息子と4歳の娘がいる米倉明子さんだ。読み終えた後、「このお母さんの気持ちがとてもよくわかります」と話した。

 「子どもにやっと会えた時の…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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