21日に投開票が行われた参院選で、全身の筋力が徐々に低下していく難病「ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者」の舩後靖彦氏(61)と、生後8か月時に歩行器ごと玄関から落下し脳性麻痺になり、首から下を自由に動かせない木村英子氏(54)が初当選した。舩後氏は介助者による代読を通じ「皆さんの目で僕という人間を見て、必要な支援とは何か、今一度考え直して頂ける制度を作っていきたいと思う」と表明した。
2人の当選を受け、24日には参議院事務局職員が舩後氏と面会。舩後氏は「私どもの受け入れに積極的でありがたく思う」と介助者を通じて述べた上で、多くの税金を使っての大規模改修は望まず、投票や挙手の際に意思を伝えるロボットの使用を希望したという。
要望を踏まえ25日、議院運営委員会での理事会では舩後氏、木村氏の受け入れを巡り、与野党の議員が対応を協議。自民党の末松信介議運委員長は「100%議員活動が円滑にできるように協力をする」と述べ、本会議場を改修し車椅子のまま入れる議席を入口近くに設置、医療機器やパソコンのための電源も用意されることになった。さらに介助者の同伴や採決の際の代理投票も認めた。ただ、舩後氏の求めるロボットによる投票などについては引き続き話し合われるという。
26日放送のAbemaTV『AbemaPrime』では、1977年に車椅子の利用者として初めて国会議員になった八代英太氏を招き、障害者と国会について話を聞いた。
■“税金を独り占めしやがって。階段を這い上がってでも行け“と言われた
テレビ司会者として活動していた八代氏は舞台から転落し脊髄を損傷、車椅子利用者となった。当時のことについて次のように振り返る。
「銀座でひっくり返った時、善意で救急車を呼んでくれたりしたが、私の車いすを起こそうとした人はいなかった。なぜなら、触ったことがないから。そんな中、私を抱きかかえて車いすに乗せてくれたのは外国人観光客だった。芸能界にいた頃は、モノマネなどをして私なりに笑わせることができていた。だが、車椅子になってから同じことしても“笑っては悪い“ということで、人々が笑わなくなった。“これを変えるにはどうすればいいか“と考えると、最後は政治になる。家内は大賛成だったが、実家や仲間からは大反対された。それでも同じ障害を持つ仲間たちのことを思い、“負けてもいい。選挙に落ちるなんて、舞台から落っこちることから比べたらどうということはない“とチャレンジした。議員になる前、議事堂に傍聴へ行きたいと申し入れをしたことがあったが、“車椅子では傍聴できない“と言われた。そこで議員会館に陳情に行こうとすると、入口に階段が13段あるので、貨物用エレベーターで上がってくれ“と言われ、対応しているトイレもありませんと言われた」。
それから4年後の1977年、40歳で参院選に初当選、「車いすが人手を借りずに堂々と正面から入れるように早急にやって頂きたい」と国会のバリアフリー化を訴えた。1999年には小渕内閣で郵政大臣として入閣。その際には官邸にも車椅子用のリフトが設置された。
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Source : 国内 – Yahoo!ニュース