長崎市から25kmほど離れた諫早市。
長崎県の中心部にあたる交通の要衝で、JR諫早駅の周辺では、九州新幹線西九州ルートの建設にともない再開発が進められている。 【画像】被爆者が「修羅場」と語った当時の現実とは… 装いも大きく変わりはじめた町に、75年前の8月9日を伝える碑がある。
原子野を走る列車は、爆心地近くから多くの負傷者を乗せて、当時、海軍病院があった大村や諫早を目指した。 『諫早市原爆被爆者救護活動の記録』より
「貨車の中を見た途端、一瞬息をのみました。ほとんどの人が裸かそれに近い状態でこれが人間だろうかと思うくらいでした。」 地域の消防団や婦人部など総出で救護にあたったが、車内や駅で息絶える被爆者も多く、地元の子供も遺体を火葬場まで運んだ。
「もう修羅場」救護被爆者が語る当時の凄惨
こうした活動に携わる中で、服などについた残留放射性物質を吸い込んだりして体内被ばくした人が「救護被爆者」。 清水多喜男さんも、その1人だった。 諫早市原爆被災者協議会 清水 多喜男会長(2018年当時):
もう修羅場ですね。8月9日は(遺体を)ただ持っていっただけ。それから1週間、毎日朝7時半出勤で夜8時まで遺体を運んだり、火葬した。それでメシが食べられない、臭いとかで
「諫早にも慰霊碑を」
「救護被爆者」など被爆者援護法に基づく3号被爆者は、全国に約1万5,000人いる。(2020年3月末現在)
しかし救護被爆の体験は、あまり表立って語られてこなかった。 当時、諫早市内唯一の市営火葬場があった場所。
400~500人の原爆犠牲者を荼毘に付したとの記録が残っているが、今は公園として整備され、当時を物語るものはない。 長崎被災協・被爆二世の会・諫早 髙屋 忠義 副会長:
ここで多くの方が火葬されたということを聞いて、長崎は碑があるのになんで諫早はないのかなって。じゃあ、二世の会でやってみようって 3年ほど前から、諫早市原爆被災者協議会と計画し、被爆75年の2020年、市の内外の被爆者と被爆二世、市民の募金などで、碑が建てられることになった。
しかし、数年前から入退院を繰り返していた救護被爆者の清水さんは、碑の完成を前に、2020年5月 この世を去った。 清水さんの遺族・鳥巣 安則さん:
元気なうちは(百日紅公園の)清掃活動に行っていた。慰霊碑ができるのも楽しみに、それまで生きとかないといけないなと言って、最期まで公園のことを一番気にしていた
Source : 国内 – Yahoo!ニュース