戦後日本のスポーツ復興をけん引した福岡県糸島市出身の岡部平太(1891~1966)の一人息子で、特攻隊員として命を落とした平一さんの生涯を描いた平和劇が8月4日、同市で上演される。22歳の若さで戦死した愛息の短い生涯は平太の不戦への思いを強くさせ、福岡市に「平和台」を創設する力となった。平太のまいた種が2020年東京五輪で再び花開くのを前に、古里の人々が平和の意味を問う。
平一さんは父同様、豪快な人柄で愛された。台北帝国大在学中に軍に志願、1945年に神風特攻隊員として沖縄の海に消えた。戦後、平太は連合国軍総司令部(GHQ)と何度も折衝し、福岡市中心部の一角を国体会場として整備。息子を思って名付けた「平和台」は球場などを備えたスポーツの中心となった。
平和劇は「未来へ語り継ぐ言葉~散りゆく桜(はな)‐君へたくす」。毎年夏に平和劇を上演している「いとしまハローピースアクト」が企画した。
「近代日本スポーツの父」として平太が再評価されている今こそ
きっかけは、劇の関係者が、鹿屋航空基地(鹿児島県鹿屋市)で出撃を待っていた平一さんと交流した瀬野(旧姓・島田)キヨ子さん(92)の存在を知ったことだった。キヨ子さんは平一さんの最後の様子を手紙で平太たちに伝えただけでなく、娘は糸島に嫁いでいた。縁の深さを知り、代表の江川佳世さん(52)が「近代日本スポーツの父」として平太が再評価されている今こそ、平和の尊さを訴える好機と作品化を考えた。
江川さんらは5、6月、手紙が保管されている海上自衛隊鹿屋航空基地史料館(鹿屋市)を訪れた。さらに鹿児島市で元気に暮らすキヨ子さんに会って話を聞いた。
キヨ子さんが平太に送った便箋8枚の手紙には平一さんの様子が事細かに描かれていた。
「持っていても何にもならないのです」と話し、万葉集やはがき、切手をキヨ子さんに渡したこと。特攻機の故障で一度は引き返したこと。戦友の「オーイ 岡部 出撃だ」の声にオルガンを弾く手を止め、特攻機を見送ったことなどが書かれていた。
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Source : 国内 – Yahoo!ニュース