85歳になった漫画界の大御所、藤子不二雄(A)さん。その歩みは、日本漫画の歴史を象徴しています。故手塚治虫さんに憧れ、漫画家が集まったトキワ荘(東京)で仲間と過ごした日々。そして「怪物くん」「笑ゥせぇるすまん」などの大ヒット。福岡市で開催中の「藤子不二雄(A)展」(18日まで)を機に、藤子さんの漫画家人生を聞きました。
ー展覧会は、東京に次いで2カ所目ですね。
★藤子 僕らの展覧会というと、だいたい生原稿を展示するんですけど、それじゃつまらない。僕は割といろんなジャンルの作品を描いてきたので、作品を元にいろんな展開をして、誰もが楽しめるようにしたいと思っていたら、スタッフが乗り気になって、皆が自主的に考えて、いろんな仕掛けがあります。僕自身もエンジョイできる、すてきな展覧会になりました。僕の作品を読んだことがない子どもたちにも興味を持ってもらえるとありがたいですね。
ー展示は漫画家人生の集大成ですね。
★藤子 父はもともと寺の住職でした。小学5年生のとき亡くなり、新しい住職が来たので僕は転校して、転校先で藤本(弘)君(藤子・F・不二雄)と運命の出会いをしたんです。2人とも手塚治虫先生の大ファンで、気が合ったんですね。
ー富山から2人で上京して漫画家になった後、原稿が締め切りに間に合わなかった失敗があったんですね。
★藤子 いっぱい原稿を引き受けていたらパンクしてしまったんです。漫画家になって半年くらいの頃。最初に失敗したから良かったんですよ。2年間干されましたが。そして、1人だとやめていたかも知れませんが、2人で励まし合って、あらためて漫画を描く元気が出てきた。2年後から仕事も入ってきて、それからは一度も原稿を落としたことはありません。
ー藤本さんとの思い出を振り返ると。
★藤子 彼は天才的な漫画家でした。ゴルフもしない。映画を見るか、読書をするか。家は隣同士で、朝は一緒に出勤して、夕方5時になると彼は帰るんです。僕は誘いがあると遊びに行くけど。彼は本当に真面目。だから、ずっと童心を持って「ドラえもん」を描き続けることができたんですね。僕は子ども漫画が描けなくなって。ちょうど読者の年齢も上がったので、青年漫画誌で1968年に発表した「笑ゥせぇるすまん」とかを描きましたが。
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Source : 国内 – Yahoo!ニュース