「人の世に熱あれ」。100年前の1922年、日本初の人権宣言といわれる水平社宣言は被差別部落出身者の尊厳を説いた。いま、差別はなくなっていますか――。部落解放同盟の中央執行委員長を歴代最長の24年間務めた組坂繁之さん(79)に尋ねた。若い世代から部落問題を見つめる映画監督、満若勇咲さん(36)にも話を聞いた。
組坂繁之さん (部落解放同盟前委員長)
――1922年の「水平社宣言」から1世紀が経ちました。
「部落差別は江戸時代、幕府が農民や町人の下に賤民(せんみん)身分を置くことで、人民を分断して統治するために使われた『つくられた差別』です。明治時代の解放令で被差別身分が廃止されてもなお差別が残るなか、部落民が自ら人間解放を訴えたのが水平社宣言でした。部落解放運動の原点です」
――時代を経て運動を進めるなか、差別はなくなっていますか。
「国の同和対策事業は1969年、生活環境の向上が阻害された地域を整備するため始まりました。住宅や教育に多額の公費が投じられ、消防車も入れない集落や貧しくて学校に通えない長欠児童の問題などは改善された。しかし、結婚や就職など人生の大事な場面で出身を理由に排除される差別は、なかなかなくなりません」
――部落解放同盟で、組坂さんが中央執行委員長に就いたのは98年でしたね。
「2002年に同和対策の事業法が終わるのを控え、残る差別をどうなくすかが委員長として課題でした。00年に人権教育・啓発推進法が制定されたのもその一環です。しかしその数年後、関西で相次いで不祥事が明らかになりました。行政との癒着、部落出身者の公務員への優先採用枠などを背景とした問題が、大阪や京都、奈良で噴き出したのです」
――なぜそのような問題が。
「解放同盟が設置した第三者委員会は、『行政要求一辺倒になったことによる組織の空洞化や運動の衰退』や『こわもての権力構造』があったと指摘しました」
「社会から排除された部落の若者が、アウトローの世界に流れることもあります。解放同盟は大衆組織です。様々な立場の人を受け入れ、更生もさせてきた。だが差別をなくす手段だったはずの事業が、自己目的化した側面がありました。私は自らを律してきたつもりでしたが、問題の発覚まで思いが至らず、責任を痛感しました」
――第三者委は、差別追及のために行われてきた糾弾闘争にも、「怖い」「つるし上げ」というイメージがあると指摘しました。
「糾弾闘争は本来、差別について対話し、差別の誤りを学び合う場です。差別発言などがされた時、私たちは組織として、当事者や行政など第三者をまじえて事実確認をする場や、差別した理由やどうしたら差別がなくせるかを考える公開の学習会を開いてきました。威圧的な言動はすべきではありません。しかし、それがなかったとしても、解放同盟の存在そのものに相手が脅威を感じるなら、真摯(しんし)に受けとめねばなりません」
「踏まれた者」だが、「人の足を踏んでいた」
――人が差別をするのはなぜだと思いますか。
「生まれながらに差別をする人はいません。差別意識は幼少期以降、まっさらな心のキャンバスに絵の具を落とされるようなものです。いったん塗られると、消し去ることは難しい。それは、気づかぬうちに心に染みていきます」
海外に行きたい――。部落差別から逃げようとした若いころ。運動に加わるまでの葛藤について、組坂さんが振り返ります。今年、ドキュメンタリー映画「私のはなし 部落のはなし」が公開された若手映画監督・満若勇咲さんにも話を聞きました。
「私は女性差別が当たり前だ…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル