10月31日の夕方、関西在住の主婦「オレオ」さんは愛犬2頭を連れて散歩をしていた。 田んぼに囲まれたいつもの道を歩いていると、「ニャー」と鳴き声が聞こえた。 声から察するに子猫で、野良猫だろうか。 そう思って視線を先にやると、車が1台止まっていた。 運転していたと思われる女性が降りて、車の側面をたたきながら何か言っている。 「お願いだから出てきて!」 ボンネットの中に猫が入り込んでしまったのだろうか。 でも、道の真ん中でそんなことある? 思わず近づいて「どうしたんですか」と声を掛けた。 女性によると、猫2匹が突然車の前を横切ったので急停車。 降りて確認していたら、車のホイールの中に隠れて出てこなくなったそうだ。 右前輪をのぞき見たら1匹が確認できて、「シャー」と威嚇してきた。 車内には保育園児くらいの女の子2人が乗っていて、女性はもうひとり幼子を抱っこしている。 子どもたちは泣き出すし、女性は猫アレルギーで直接さわれないとのこと。 でも、自分は犬を2匹連れているし……。 どうすべきかを考えていたら… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
見つけた星に母の名を付けた 93歳コメットハンターが語る星の魅力
コメット(彗星、すいせい)ハンターとして世界的に知られるアマチュア天文家の関勉さん(93)=高知市。彗星だけでなく小惑星も見つけ続け、今年は223個目に名前をつけた。星降る夜を幾度も過ごした関さんに星との付き合い方を尋ねた。 ――彗星や小惑星の探索を始めたきっかけは 戦後直後、高校生の時、世界に先駆け、日本人が新彗星を見つけたと聞きました。本田彗星(1947年発見)。発見者の本田実さん(1913~1990)の名が彗星の名となって世界に伝わる。敗戦でみんな自信を失っていた時に、初めて未来に希望が持てました。 当時は天体望遠鏡もなく、彗星が何なのかも知らない。でも、この思いを本田さんに伝えたい。 手紙を書くと返事が届き、文章の最後に「関彗星の発見に期待しております」と書かれていました。その後も手紙をかわし、本田さんはただ1人の彗星探しの恩師です。 自信と見る目 育てた11年 ――最初の関彗星は1961年に発見しました 1950年ごろ、自宅の屋根に台座をつくり、夜晴れれば、跳び起きて自作のコメットシーカー(彗星を探す天体望遠鏡)をのぞく。 1955年には独学で始めたギターの教室を開き、昼はギター、夜は彗星探し。 でも、彗星はいっこうに見つからず、それでやめると今度は張り合いがなくなり、また始めるの繰り返しでした。 やがて「はるか遠くに目標の… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
Au Japon, révolution ostréicole sur la petite île de Kumejima
Des huîtres d’élevage « 8th Sea Oyster 2.0 ». GéNéRAL OYSTER Un petit bureau dans un préfabriqué gris, une serre avec des bassins et un mystérieux bâtiment de béton gris et blanc. A deux pas des eaux turquoise de la mer de Chine orientale, ces installations spartiates bâties sur la côte de […]
千里ニュータウンの建て替え、8割終了 まちが続くために必要なこと
大阪府の吹田、豊中両市にまたがる千里ニュータウンは日本初の大規模ニュータウンとして開発されました。先頭を走ってきた千里が抱える課題の多くは、各地のニュータウンも直面することになります。千里のこれまでと将来像について、どう考えるのか。「千里ニュータウン研究・情報センター」共同代表の太田博一さん(75)に話を聞きました。 ――ニュータウンは「画一的で面白みがない」という見方もありますが、育った人が外に出て良さがわかるという話を聞きます ある住民が地域の運動会でクロスカントリーをやりましたと会社で話したら、「一体どんな所に住んでるんだ?」と。千里では、車が通らない歩行者専用道がぐるりとまちを一周しているからできるんですね。車社会の到来を予測して、安全のために「歩車分離」を徹底したのです。 計画的につくられたまちなので、人間の思想がよく表れます。住民間の交流が生まれやすいように、広場を囲むように立つ集合住宅も多くありました。 ――老朽化した住宅の建て替えが進み、まちの姿は大きく変わりました 1962年のまちびらきから60年が経ち、新しいマンションが次々に建っています。ただ、1級建築士で、各地の住宅地計画に携わった太田さんは懸念していることがあるといいます。 千里の全住宅の約85%は集… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「脱竹」芸人のM-1 コンビ別れ度々「大げんかして憎んだ」先に
「脱竹」。芸人らが松竹系芸能事務所から移籍・独立して活動する行為を指す。ネット上の百科事典ウィキペディアに載っている俗語で、主な脱竹者の一覧も掲載されている。「僕もここに名を連ねるくらい有名になりたい」。そう夢見る元松竹芸人は今年もM―1グランプリに出た。 「どうも~。(お笑いコンビの)アーモンドフェイスです」 つっこみのシャケタロウは30歳になった。 限界まで刈り上げた髪がトレードマーク。養成所NSCを出て吉本芸人になったばかりだが、松竹にいた5年ほどを含めるとフレッシュじゃない。 M―1は何度も出ているが、今年は作戦を変えた。「相方を1人に絞ったんです」 相方6人、渡り鳥作戦 養成所時代は相方を取っかえ引っかえしていた。複数のユニットを掛け持ち、昨年のM―1には6組のコンビで出場した。 つまり、漫才の相方が6人。 1日に4回本番が回ってくる日もあり、衣装もそのまま次の出番へ。舞台に上がると客席がざわつく。 この芸人、さっきも見たような……。 相方をとっかえひっかえで出た昨年のM-1。その後、勝つために、ある決断をします。 司会者に叫ばれる。「何回出… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
バッシングに感じた恐怖 生活保護裁判、それでもまた闘う
政府が生活保護基準を引き下げたのは違法だとして、約1千人の生活保護の利用者が、全国各地で起こしている訴訟。4月の大阪高裁が原告の訴えを認めなかった一方、11月末の名古屋高裁は引き下げを違法とし、国に賠償も命じた。 現時点の地裁判決も半数以上で利用者側が勝訴しているが、大阪訴訟に加わる大阪府岸和田市の男性(51)は「裁判は苦しい選択。しないで済むなら、その方がいい」と吐露する。 異議を申し立てる人に対して、時に冷酷な視線が浴びせられることを、身をもって経験したことがあるからだ。 妻と2人、パンの耳を食べた日々 男性が生活保護制度に関して裁判をするのは、今回が2回目になる。 1回目のきっかけは、リーマン・ショックが起きた2008年、妻(58)の母親を介護するために岸和田市に引っ越したときだった。 急激な不況のあおりで、生活の糧を得てきた工場での派遣労働などの仕事がなくなった。ハローワークに通って様々な職種に応募しても仕事はみつからず、貯金はほとんど底をついた。 生き延びるため、近くの支援団体のサポートを受けて市役所に生活保護の申請書を提出した。 だが、5回続けて却下された。 市が挙げた却下の理由は「稼働能力活用により最低生活維持可能」。つまり「働けば生活できる」という意味だ。 でも、財布には200円しかない。どうやって職を探せというのか。近所から野菜をもらい、妻と2人でパンの耳と一緒に食べる日々が、1年ほど続いた。 生活保護の申請は09年夏、6回目で認められた。それまでの判断は、いったい何だったのか。市の対応に納得できず、11月に過去の却下処分について取り消すよう求めて大阪地裁に提訴した。 「生活保護バッシング」のなか 裁判は4年間続いた。男性は「つらいことばかり。何度も投げ出したくなった」と振り返る。 まず、ネット上にあふれる中傷だった。 「わがまま」 「税金の無駄遣い」… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「現代の忍者」博士号を取得 忍びの探究を地域防災のあり方に広げる
「現代の忍者」として三重県伊賀市石川で防災コンサルタントなどをしながら活動する三橋源一さん(49)が博士になった。三重大学が2018年度に導入した大学院修士課程の「忍者・忍術学」コースの修了者から初めての博士号取得という。忍びに関する史学的な探究から、現代の地域防災のあり方に広げた研究が認められた。 三橋さんは、三重大学が全国初の忍者コースとして大学院人文社会科学研究科に設置した「忍者・忍術学」の修士課程1期生。この分野に博士課程はなかったが、その後も向学心は衰えなかった。災害時の企業の事業継続(BCP)などに関する専門家として、古文書などを通して江戸時代の農村での災害時の対応を調べることで現代の防災につなげたいと、地域イノベーション学研究科の博士課程に進んだ。 江戸期の文献調査などに明け暮れる中で、三橋さんは、1854年の伊賀地域の地震で、鈴鹿市内の農民の被災状況を津藩に仕えた「無足人」がいち早く把握し、藩側に伝えたことを確認。無足人は一部が伊賀衆の流れをくむ。被災した農民を支援する権限が支配層から与えられ、公助と自助を結ぶ立場にあった。 博士論文は「災害対応における組織間協働の歴史的考察―鳥羽藩・津藩・岡山藩の比較―」。被災地での無足人の活動などを記したうえで、幕末の津藩にみられた被災者支援のあり方が現代の地域防災にも役立つ可能性を指摘し、教授陣の厳しい査読を通過した。 三橋さんは、鳥取大学や京都大学大学院で農業経済を学んだ後、出身地の大阪府枚方市に戻り、ビル管理などを手がける家業を手伝った。一方で、26歳のころ入門した道場で忍術などの武道を体得し、現在は大師範の腕前だ。 三重大学の修士課程への進学に合わせ、「防災と農業、忍術を全部できる場所」として伊賀市に移り住んだ。研究と並行して、農業や防災に関する取り組みを続ける一方、外国人向けに伊賀流の忍術を紹介する講師などとしても活躍している。 20日に学内で博士号の授与式があり、三橋さんはアカデミック・ガウンに身を包んで出席。地域イノベーション学研究科長の諏訪部圭太教授から証書を受け取ると、丁寧にお辞儀して感謝を表した。三橋さんを見守ってきた教授陣の1人は「がんばって学位を取られたことに敬意を表する。自分の生き方を学問で表現されていると感じた」とたたえた。 三橋さんは「忍びは正確ですばやい情報の伝達が最も重要な仕事とされ、その動き方は災害発生時に情報収集などで役立つと思う。忍びの文化を通して南海トラフ巨大地震などに備える社会づくりに貢献していきたい」と今後を見すえている。(亀岡龍太) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
反戦、勇気、声を届けること 女性たちと渡辺えりさんの響き合う思い
私の父は戦時中、戦闘機「隼(はやぶさ)」のエンジンを作っていた。19歳の時に爆撃を受け九死に一生を得ており、「残りの人生は余りみたいなものだ」と言っていた。私は、父の余りの人生の中で生まれ育ったということになる。 渡辺えりさんの心に残る「ひととき」 劇作家で俳優の渡辺えりさんが、投稿欄「ひととき」を読んでつづりました。「心に残る作品が多く、悩みに悩んだ」という渡辺さん。反戦の強い思い、言葉や文章にして声に出すことへの信念が伝わってきます。「ひととき」は1951年に誕生した朝日新聞の女性のための投稿欄です。(本文中の投稿者の年齢は掲載当時) 奈良市の73歳、加藤江里子さん(「無口だった父」8月29日)、宮崎県の86歳、原田マキ子さん(「硫黄島の砂」8月28日)は、戦争のむごさを、それぞれ別の角度から書いて下さった。 親友が爆死したのに自分が生き残ってしまった私の父の思いと、江里子さんのお父様の気持ちが重なる。マキ子さんのお父様が生きた証しが、敵だった米国の戦史研究家から届いたエピソードも「戦争は誰のためのものなのか?」という根源的な矛盾を浮き彫りにする。 10年以上前だが、国際ボランティアの方たちの好意で、私の自宅にパレスチナ自治区ガザ地区の医師たちを招き、劇団員たちと海鮮鍋でもてなした。その医師たちは、わざわざパレスチナから持ってきたというぶどうの葉を使って、郷土料理を作って下さった。私の故郷、山形人のような情に厚い純粋な方たちだった。 温和なみなさんが、残酷な出来事を淡々と話して下さった。食事中に突然爆弾が落ちて目の前の家族が亡くなったなど、想像を絶した。今もこうした殺戮(さつりく)が繰り返されている現実を忘れてはなるまい。 埼玉県の71歳、小山恵美子さん(「看護師さんの勇気」10月27日)からは、若者の純粋さと勇気を改めて感じる。昨今の、人として優しさを表現しにくい社会の雰囲気は、戦争へつながる怖さがある。 大阪市の51歳、仲川真紀さん(「やっと見つけた人生」8月25日)は、子ども時代にいじめにあったが、多くの人たちに支えられ、自立した精神を手に入れた。 目の見えない方だけでなく、年配の方たち向けの読み聞かせや朗読が必要なのではないかと、日頃から思っていた。東京都の73歳、山崎正江さん(「母への読み聞かせ」11月8日)は、96歳のお母様への新聞の読み聞かせを通して、ご自身の生きる力を得ている。 文章を書くことも大事だ。でも、思いを山ほど抱えていても言葉にして伝えるのは難しい。 岡山市の22歳、河合柚実さん(「見つけたこの場所」11月14日)と、この作品を読んで感激した福岡市の24歳、中川久美加さん(「染み渡った文章」11月21日)は、自分の気持ちを相手に伝えられずに葛藤する思いを文章に託す。 病床で、家族が立てる物音に励まされるという宮崎市の47歳、古川晶子さん(「大好きな物音」8月21日)のような方にとっても温かい声による読み聞かせは大切だろう。 そんな勇気ある温かい声たちを戦場に届け、一刻も早く戦争を止めたい。死んでしまえば最後、温かい声も文章も届かない。 わたなべ・えり 1955年、山形県生まれ。「板上に咲く―MUNAKATA: Beyond Van Gogh」(原田マハ著)の朗読が、アマゾンオーディオブック「Audible」で配信中。 ◇ ◇ ◇ 「無口だった父」 朝日新聞の(8月)15日付朝刊の記事「抜け殻だった父」を読んだ。心に傷を負い変わってしまった復員兵の話だった。状況は違うけれども、何かストンと心に落ちるものがあった。 私の父は生きていれば106歳。幼い頃、優しく、何かを聞くとすぐに答えてくれる父を尊敬していたが、父は無口だった。母から戦争のことはたくさん聞いた。父からは一切なかった。 大学を出て技術将校として海軍に入り、母と結婚したこと。終戦の日長崎県の大村市で、近くの山に集まり自決することになっていたこと。父は腹痛により、その場に行けなかったこと。母は何回も私に語り、涙した。あの時父が山に行っていたらあなたは生まれていなかったと。父にとってそれは「恥」であり、申し訳なさでいっぱいだったのだと。 10年ほど前、大村を訪ねた。海軍の墓標らしき建物はあったが、ひっそりとしていた。 父もお酒をよく飲んだ。今ならその気持ちが私にもわかっただろうに、戦争のむごさを語ることができたのにと思うと、悔しい。記事を通じ、父の思いを知ることができたことに感謝している。思いは消えることなくつながれていくと信じます。(2023年8月29日掲載) かみしめる平和 「無口だった父」を投稿した加藤江里子さんから 30年以上前に亡くなった父。投稿の掲載後、友人・知人より電話などをいただき、息子たちからも「おじいちゃんから話を聞きたかった」という反応がありました。いま日本に住む私たちは平和な日常を過ごせていますが、ガザ地区の痛ましい報道が日々流れています。そんな中、思いを「米を研ぐ 恙(つつが)なき日のありがたさ 戦(いくさ)のニュース流れるなかを」と短歌にしました。 ◇ ◇ ◇ 感謝 伝えたくて 「看護師さんの勇気」を投稿した小山恵美子さんから 電車内で少女を介抱した看護師さんには、彼女の勇気ある行為を周りがどう受け止めたか、ぜひ伝えたいと思って声をかけました。投稿を読んだ知り合いからは「表彰状ものだ」という反応がありました。元看護師の幼なじみは、近所で一人暮らしのお年寄りの健康を気づかって積極的な声かけをしているそうです。使命感あふれる看護師の皆さんの行動に感謝の念を抱いています。 母への刺激 願い 「母への読み聞かせ」を投稿した山崎正江さんから コロナで中止していた朗読サークルの活動も再開。仲間たちや講師が投稿掲載を喜んでくれました。普段の活動で読むのは短編小説やエッセーが多いのですが、母に読み聞かせるのは、もっぱら新聞です。記者が書いた政治や経済の記事よりも、素人の読者が投稿した文章がお気に入りのようです。最近は聞いているかどうか定かではありませんが、刺激にはなっているはずと思い、続けています。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
メスだけ生む「超メス」候補作りに成功 チョウザメ養殖のコスト減に
宮崎県水産試験場内水面支場(小林市)が、同支場で生産したロシアチョウザメの中から、メスだけを生む「超メス」の候補を作り出すことに初めて成功した。近畿大水産研究所新宮実験場(和歌山県新宮市)との共同研究。将来的には「超メス」の育成を進めて稚魚すべてメス化を達成し、養殖キャビアの生産コストを大幅に減らすことを目指す。 チョウザメは生殖能力を持つまで時間がかかり、生まれてしばらくの間はオスとメスを判別できない。そのために性別が判別できるまで数年間は個体の半数を占めるオスも養殖せざるを得ず、飼育環境やえさ代などが高くつき、魚卵のキャビアの値段が高止まりすることにつながっていた。 県水産試験場の研究では、性別決定に関わる染色体のDNA配列を検出する検査法を開発。精子に紫外線処理をして受精させ、その受精卵に温度処理をすることにより、「超メス」の遺伝子だけをもつ個体を確認した。理論上では、超メスの卵を受精させた次世代の稚魚はすべてメスになるという。 今後は、作り出した「超メス」の定期的な検査・分析を進め、生殖能力を持つ7年後に交配させ、稚魚がすべてメスになるかを調べる予定だ。最終的に「全メス化」を目指す壮大な計画になる。 県水産試験場の担当者は「『超メス』が実現すれば、高級食材であるキャビアの生産コストが大幅に削減され、宮崎産のキャビアが国内外の価格競争に勝ち抜ける環境が整う」と話している。(石川雅彦) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
算数、分かった! 学びがゆっくりな子が通う塾、その授業の秘訣は?
障害があるなど、「学びがゆっくり」な子どもが多く通う個別指導塾がある。東京都武蔵野市の遠山真学塾。40年前の創立当初から、計算につまずいたり、文章題の解き方がわからなかったりする「算数が苦手」な子どもたちに寄り添う授業を展開してきた。どのような学びなのか。 遊びながら学ぶ 11月の日曜日の午後、小学5年のみさとさん(10)が塾にやってきた。定位置に座ると、担当講師の千田悦代さん(48)に声をかける。「今日は、かけ算から!」。授業は、繰り返し練習をしてきた「7の段」の九九から始まった。 机に「7×3=21」など、7の段の数式が書かれたカードを並べる。七つずつ増えていくタイルなどのイラストが描かれたカードと、答えの数字のカードをそれぞれ対応させていく。トランプを楽しむように、みさとさんは九九を音読しながらカードを動かす。 「しちいちがしち、しちにじゅうし……」。途中でつまりそうになっても、イラストを見て数えながら、最後の「7×9」まで成功させた。一列にカードが並ぶと、「できた!」と満面の笑みを見せた。 理解するための工夫は その後は、苦手だった繰り上がり・繰り下がりのある計算に取り組んだ。「1と、9で、10!」「2と、8で、10!」……。自作のラップ調の歌を口ずさみながら、筆算を解き始めた。 「11-3は……。10になるのは3と7だから……」「わかった! 8だ」。紙に書かれた筆算をすべて解き終えると、自分の赤ペンで大きな花丸を付けた。 みさとさんは、小学校では特別支援学級に通う。入塾したのは1年生の夏。「数が1からだんだん大きくなる」という感覚を捉えづらい様子があり、母親は学校の授業ではカバーできていないように感じた。家で教えようとしたが、どこにつまずいているのかわからず、教え方が難しかった。 塾では、具体物やカードを使… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル